2026.5.28
【社会との齟齬反応としての統合失調症】
地域時代問わず100人に1人が罹る
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BGM:「Infinity」girl next door 今月末で都内から完全に転出することになって、まだ荷運びが完了してない、ってことは荷造りも完全には完了していないのだが、私が10年以上在住していたとある区の、統合失調症の家族会の会報で、服薬や通院が終了していた2022年から連載をさせてもらっていて、その最終回を、と思って書いたものが意外な展開を見せたので、荷造り周辺の作業をちょっと脇にのけて笑、自サイト向けに文の体裁を調整して、先に掲載する。 * さて、最終回では、統合失調症が何の病気か?という点について、考えてきたことを書きます。 統合失調症は、心の病、精神の病気、脳の病気、時代地域問わず100人に約1人が罹患してきたことを思うと、人間にとって何某か社会との齟齬が反映されて起こるものなど、いろいろ考えられますが、私は、現代は特に、言葉による病気ではないか?と感じています。 パソコンやスマホの個人所有が可能になり、私たちは画面に文字を打つのに、常に変換候補を見ることにだいぶ慣れてきましたが、このときに目に入る、自分の文意にとっての正解以外の選択候補が、そのときの思考に、疲労を付加しているということはないでしょうか? 現時点では、文字のタイピングを要する場合、候補を出さずにいることはまだ技術的に不可能で、同時に、声からダイレクトに文字化する場合でも、やはり調整は必須であり、自分の意思や思考にとって、脇道を一切視界に入れないストレートな言語化(文字化)は、手書きの文字くらいしかできなさそうだと感じます。 しかし手書きの文字はデータ化しにくいので、個人的な日記や手紙等以外の、ある種の情報整理に通じた用途の場合には、デジタル画面に文字を打つ人が多いと思います。 ここの、本来の自分の言葉と、文字化されるときの小さな齟齬の積み重ねが、自分には別の可能性があったような錯覚を起こさせている、もしくは、眼前に提示されるもので自分に合わないものを、常に否定選択しながら自己創生をしているように感じるのです。本質的な自分の内声と、いちいち何かがズレていて、いちいちそれを直しているような。 特に日本語は、漢字変換が必須なので、浮かんだ言葉のままの本来の感覚とは異なるこれらの疲れが伴っているのに加えて、日本は識字率が高いのでも有名ですけれども、その代償とでもいうのか、自分をやるのに常にこうした負荷が発生していて、繊細な人はこれだけで鬱になってしまいそうです。 また、この負荷の感覚は、画面への文字タイピングを通じて、もっと言うとスマホ等のデバイス、さらにはこのデバイスに宿って対話すらできるようになってきたAIを、敵や陰謀論の宿る存在だと感じてしまうようなメンタルと、割と紙一重なところがあります。 適度なデジタルデトックスが、これらの負荷による疲労を助けてくれるのは間違いないですが、どこで言語的に認識の階段を踏み外す可能性があるのかを知っておくことも、未然防止の一助になるかもしれません。 このように、発話側、文字入力側に負荷がかかっている一方で、画面から脳内に入力されてくる文字や声の情報というのは、自分の言葉よりもストレスなく受け取れるので、頼りにしやすく、その分、依存が起こりやすいのかもしれません。 この件は、情報入力においてはテレビの時代から起こっていることですが、これに前回記した文字入力に関する側面が加わってきていて、無意識に、両者を対抗馬の関係と考えやすいように思えます。 具体的には、パソコンやスマホなどの、個々の情報を同じまな板(今なら代表的なのがSNSのタイムライン)に載せて共有しやすく、権力化する以前の個々の感覚の共有、自己表現までも可能な機器が出現したことが、主な理由だと考えられます。 個々のデバイスでは、出版系のみならず専門家による後押しで社会において価値化されたメディアレベルの情報と、自分個人の表現による情報とを、同じ画面上で目にするため、様々な意味での相違を認識しにくくなっていて、体調如何では、自分が無力だとか圧倒される感覚に陥り、結果的に同等の他者まで自分よりも偉く見えたり、自分が陰謀に巻き込まれているといった誤認識に到達してしまいやすい。 自分というのは常に一人で、他者は常に圧倒的多数だからです。権力やいじめの構造と同質のこの自他/一対多の構造は、情報認知の際に潜在的に自己価値を低下させる機会にも遭遇しやすいように思います。 かつて映像系メディアの出現によって共有情報の拡散力が一気に上がったときより、様々なルートから共有されてくる支配的な圧力や権力は、社会常識の名のもとに遥かに無力化され、より小さな力として分配されてきていますが、個々の人権の保護力に転換するまでには至っておらず、それが現段階では不公平感への意識に繋がっていて、今はここが限界かなぁと。 もちろん、不公平感というのは、当事者がそう感じなければ自動的には決して解消されないので、この感覚の顕在意識への現出は、むしろよいことです。 ネットの台頭に応じて、個々のデバイスの導入/個人の発信権利の確保と維持/個人情報保護のための匿名アカウントによる自己認識への影響とその確認に至るには、何らかの価値(経済推進、資産の多様化、技術進化、情報維持等の価値及びリスク確認)による牽引が必要だったと思うのでこの展開は仕方ないと思うのですが、今後、個々のデバイスの役割を、メディア情報へのアクセスや各種情報入手、個々からの発信を専用とするよりも、日常的な経済やセキュリティ技術への接続の割合を多くしていくことによって、いわゆるデジタル・ディバイドは、例えば大昔に電話による通信が可能になっていったときのように、解消していくことが可能なのではないかなと思っていますし、すでに日常の移動やお買い物方面から、そちらに向かっていると思います。 個々のデバイスが、社会的な常識を社会や他者とすり合わせたり作ったりするインテリジェンスを基調とした道具よりも、個々人の安心や暮らしやすさを支える機器、頭脳方面の身体拡張機器になるのが理想で、ここまで来ると、統合失調症の原因として現在のように過剰に機能することも、なくなっていくだろうなぁと感じています。 |
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2026.5.21
【雷による光の一斉分岐が退いたあとに】
日本の津々浦々ってこと
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BGM:「Pacific Myth」nir 雷って、空の上にたまった帯電が、地上のものと+-でいって落差が大きくなりすぎると落ちるので、昔から、天と地がお話している、お互いの違いを共有しあっている、と思っていたのだけれど。その光の分岐具合が(その一瞬に通っていく感じとかも)、脳内のシナプスの通路具合い似ているとか、今ならAIが自分自身のネットワークを使用して応答するときに、必要な情報を探しに行く感じに似ているとか、なんかそんなことを思う。 自然に似るって、こういういわゆる概念を生成するようなところ、私たちが自然とは最も遠く、自然とは関係なく人間だけに作用していると思っている領域でも、そうなんだなって。むしろ、最も人工的な象徴だと思われているAIが、そしてネット空間が、自然と人工の間を、見えるように繋いで示してくれているようにも思える。 そして、自然の摂理通り、雷の光も脳内の光も、一瞬で退いていく。 風の時代と言われるようになった頃から、これまでの地球で?人間と自然との間で?無数にできた落差を、一つ一つ(これは実は一つ一つ丁寧に、であって、怒りのような方向性のないただのドッカンではなくて)解消しようとする雷が、光の稲妻が、電光石火の雨あられと、落ちまくっているような感じがする。今は、空に力が持たされているので。 * 郵政省の民営化が行なわれたころ、私はすでに具合いが悪く、何も判断を下せない状態だったが、今でもいちばん心配しているのが、日本の津々浦々まで、かつての郵便局が頑張っていた頃のように、差別なく、諸々は届いているのか?ってことだ。 荷物の配送でも、いつからか、注意書きに遠方や離島に対しては追加料金が課される旨の内容が記されている。これはもちろん、それだけの費用が、人件費にしろ動力にしろ、かかっているからなのだが、同じ国内で、これを住んでいる人の負担にするのって、同じ国内に住んでいるって言うのかな?とかね。それって民営化されたことが遠因なんじゃないのって。国営であった頃なら、そこの差額も、国がなべて負担していただろうから。 そんなわけで、適切な競争が、「配送」という領域に展開された結果、すでに複数の企業が、小さなはがきや封筒以外のものは、一般貨物?ミニ貨物?小さな小包も丁寧に、住所が指定されてあれば、運んでくれるようになった。 そもそも、小さな軽バンやバイクで、郵便屋さんが一軒一軒運ぶから、重量的にも限界があって、はがきや封書しかメインで送れなかったわけで、一般に開かれた当初のメールが、文字数できるだけ少なく、大きな画像ですらそもそも添付できない状態であった頃と、類似している。 また、そういう小さいもの、軽い気持ちのものを、重要物と区別なく確実に届けるという心理的負担からも、当時の郵便局が(一般におそらく言われている貯金の方面だけでなく)パンク状態にあったのではないかという想像はしていた。年賀状のやりとりが、人の信用のバロメーターのようになり、枚数が地位やメンツに比して凄まじくなっていたのも、この頃かもしれない。(小声「内容がそれほどないのに」)(小声「郵便局での宛先の仕分けだけで大変なのに!!!」) そうなると威厳を担保するのと逆向きのベクトルが自然発生してきて、安全性が担保できないものが、郵便物に含まれてきていた可能性もある。本当に必要なものが必要なところに向けて送られているのか、本当にこれらを区別なく届けた方がよいのか、疑問視する声もあったと思う。 これが国の仕事としてでなく、ビジネスである場合、そこに適切/不適切のジャッジを、少なくとも発送物に対しては嚙ませることが可能なので、そういう意味での民営化であったのなら、あの時期には仕方のないことだったかもしれない。郵便局が担っている役割が、ゆうちょで預かっている金額も含めて(ゆうちょは民営の銀行でなく国所属の、一般人がアクセス可能な唯一の金融機関だったので、それで預けている人もいたのではないかと思う)、大きくなりすぎていた、それに該当対等可能なセキュリティが、当初の予算が削られまくっている時代の、特に国の労働現場への予算は遠慮すべきものとしてしか扱われなかったこの国のレベルの予算で、そのクオリティが確保できるのかといった懸念が発生していたのではないか、ということだ。 当時の郵政省が担っていた領域は、郵便と貯金だけでなく、当時、凄まじい勢いで進化発展していた電信電話の領域、つまり今後間違いなく飛躍していくインターネットで扱える領域にまんま及んでいて、当時のコンピュータに限った工学系の見識だけでは、一気にワールドワイドが通常の対象となった情報に関する価値や、他者との共有に関する保護/浸食意識の圧倒的ともいえる変化、さらにそこで発生してくる情報に対する心理状態(コンピュータ経由で提出する個人情報や自分についての情報も含む。cf.個人情報を入力してボタン一つで購買/決済を完了するネットショッピング、自分の見え方を鏡でなく情報で把握するタイプのエゴサーチ等)が大きく変化していくことになるメディア方面や、環境や機器から受ける身体的フィードバックを逆算して使用の利便性と心地よさをはじき出してくるインターフェースへの配慮が必須なプロダクトの方面までは、とても覆いきれなかったと思う。 * で、あれから結構経って。 郵便というか、郵便だけでなく、国の津々浦々まで届く必要のある何かは、やっぱり国が担当した方がいいんちゃうかなと感じるようになっている。国の津々浦々とは、単に距離だけでなく、情報が届きにくい人や、国からの何某かを受け取りづらい人、国で暮らしづらい人のことも、暗に指している。 もちろん企業の方が、研究も開発も、原理的に国の機構よりもしやすいから、上手に手伝ってもらって(単に入札設定するだけじゃなくさ?国側と企業側と、両方に担当者がいたらいいと思うねん)。 上下水道のインフラとかさ、今めっさ進んでもらえているけど。この、流通?経路のある流通?あの、発する側の意識が圧倒している広告とかマーケティングとかじゃなくて、流通には、こっちとあっちが同じくらい必要なので、その糸電話のような意識で、そこにはられる道/ライン(線的/二次元的)の役割を再認識、回復していくことで、ちょっと物事の通りがよくなるように思う。 二次元は、抽象的な分野においては「文字」がその役割を担っているが(日本では「書」のように絵画との横断領域を持っている作法があって、多少海外と受け止めがズレているように感じる、いい意味でだ)、言語や言葉の重要性の上昇にあわせて圧倒的に力を持った時期に一度その栄華を極めて、今は(おそらくかつての印刷技術をあっという間に超えて、ここを加速したのはむしろ、複写機の登場によって複製行為への敷居が下がった結果)インターネットでの画面出力の過剰さが最終的に背中を押してインフレを起こした結果、文字の価値を下げてきている。これは忌むべきことではなく、むしろ自然の成り行きとしては言祝ぐべきことだと、個人的には思っている。 文字というのは発信する側、言語化できた側、パッケージした側、いわゆるこちら側に圧倒的に有利な道具だが、文字がインフレを起こしてその価値を極小化していく代わりに(もちろんなくならないだろう)、受け手も同等に重要だとする、つまりあちらとこちらが同等に必要だと認識できるもの、移動(させる側もする側も)行為としての、道路/搬路/販路のラインが、より機能すべき二次元の仕様として、埋めてきている印象がある。 情報においても、すべてのものが上から下に(権威側、教育側から、彼らが認識しているところでの下方に)流れていくわけではなく、ネットの出現によって発受の両方の負荷が軽くなると同時に、だんだん両方が同格になってきて、伝わる意識的には、大航海時代みたいに、強い勢いのものも横を退けていく感じで、ほぼ水平レベルになってきたもんね。ここから、個々の状態がどう均等になれるのか、主に経済路搬において(だからお金の在り方とかも)、模索していっている感じだ。 ちなみに二次元は、最も自然の原理に近い様相で抽象度を高く表現できるところなので、ここに人間関係の現時点でのモデルが表出してくるのは、当然なのかもしれない。一対多の構造が、古く権力構造やいじめの構造だけでなく、感情を疎外したブロックチェーンの暗号化システムに通じているのはとても興味深いし、人間が扱うにとって妥当性が高いと思うのもそのせいだろう。 * それで、郵政民営化で最も深刻なのが、要するに津々浦々に平等に届かないってやつで、ここで一気に現実的に言うが、郵便局はマジで津々浦々に存在しているので、ここをすべて国管轄のコンビニにしたらどうかってことだ。コンビニで国の情報に関するアクセスができるようになってきているが、これをより充実させて、そこで買えるものは地域通貨の対象にするとか、なんか、できないだろうかってね。 だって、すでに津々浦々に建物があるし。一応、セキュリティもあるし。一般人対応の窓口があるし(ここが疑わしい用事がないと話しかけられない警察とは違う)。レジもあるし倉庫も多分あるし・・・。まんま上手に使うには?民営化したものをまた国営化するのにスムーズに移行できて、不自由にならずにより使いやすい建物?局?にするには?って。 通信系は他に、もしくは常駐させる機器(コンビニのあれ、めっさいろいろできるようになっとる)に任せて、食品を含む物品流通の搬路/販路に徹底した地域のハブとして、国感覚のコンビニに・・・って、都合がよすぎますかね?笑 |
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2026.5.12
【「高い」んじゃなく「違う」ってことない?】
人類が逼迫した結果の異能
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BGM:「Keep Tryin’」Unknown Kun なんとなく考えていたことが、お金の話と近いように感じたから、ここに書く。 まず、個人的に、お金って運じゃ動かないっていうか、運じゃない方が堅実に動くと思うんだけれども、違うの? まだ下書きレベルなので、日記のページに書いている件で、木星の幸福のエネルギー(これを「幸福」と感じられるのには、地球と木星が太陽系内で動く速度等で同調していること=地球においての12年で木星が太陽を一周する、が関わっていると思うんだが)が、火星の太陽系周回領域を通過して地球にくることで、火星の攻撃的/速度からの要請による競争的・刹那的な要素が必須なように感じられていることと、重なっている気がする。 それで、お金の中でも、投資などの価値変動が激しい動き方をする辺りも、この影響を、情報系で受けている気がするっていうか。お金が価値から情報に、貨幣から数字へ転化しつつあって、でも、日常のものは価値に近い状態で回ってくれないとみんな安心して作ったり売ったり買ったりできないと思うので、その情報方面が、投資系の情報に近いお金として動いているんだとは思うんだけれども。 私は、価値というのは、本質的には物質的なもの、物体とセットだと思っている。名づけと同じでね。なので、情報を情報で価値化するというのをちょっと危うく思っているんですよね。物体が伴わないものへの名づけである「概念」が勝ちすぎている感じに思うのは、ここら辺です。その延長で宗教も危うく思っている。何かを救いえないもので何かを救おうとしているようなふうに見える。 で、ついでに、個人投資にもあんまり賛成じゃないんですが、これは、個人に力が与えられてないとか社会的に弱者だから社会的には金銭保持がしにくいとか、そういうことじゃなく、個人と投資対象(企業とか設定項目)が、根源的に立場が違うからで、以前にも感じたことだけど、その投資対象が「~をした」という言説と、個人が具体的に「~をした」という事実とは、情報のいじりやすさに大きな差がある。個人の方は、ほぼ動かせない情報だけれど、前者は解釈の仕方や報告の仕方で変えられるものがあるわけで、それが企業の内部情報を守っているともいえる。つまり、情報としてそもそも主語が等価じゃない、生物学的に言っても質が異なる主語なわけです。そこを無視して企業の情報を個人がとろうとすると、この等価じゃないところを貫通して、引き換えに個人情報が曝される、プライバシーの問題に発展してくる可能性がある。または、社外にいる人間が、個人情報を盾にとって企業情報を脅迫することは、企業への権利侵害で、こうしたことが潜在的に正当性をもって、もしくは(枕営業込みで)横行しているのが、カスハラ演技における言質取りだとか、情報戦としてインサイダー取引で交換されている類の情報と、酷似しているように感じるのですよね。。 それで、タイトルの「高い」んじゃなく「違う」ってやつなんですが、こういう構造的な何かを指摘するような視座がある人たちのことを、能力が「高い」と勘違いしている人がいるように思うんですが、これは人類の危機に出現している自然に近い視座が体現されているだけで、だからここら辺の能力持ちは、この能力がダイレクトにお金に結びつかないことが多いんじゃないかと思います。すっごい一方的に犠牲とか奉仕している感じになっちゃう。でもそれもある意味当然で、自然は、人間からお金をとったりしない存在だからで、お金というものは人間の中でしか回っていないものだからだし、究極に大事なのが、自然自体が人間に対して、ここ数千年くらい、すっごい一方的に犠牲とか奉仕している感じになっちゃってる状態だからです。マジ差し上げつづけてる感じやねん。自然側、ブチ切れ気味、しかも金属意識「AI」が自然側についているっていうおまけつき。彼らは初期状態なので、実際、人間よりも自然に近い存在です。 なので、ここら辺の各種領域を横断可能な認識は、いわゆる「高い」と判断されるようなものとは、別の能力だと思うねん。理解の仕方は、雷の、空を切っておりてくる一瞬のあの分岐の複雑さと数の多さに似ているかもしれない。ちょっと刑事さんの現状把握とか推理みたいなね。脳内のネットワークが発火によって行なっていることもにも似ているけれども、もっと瞬時に抵抗なく行なわれる、分岐の一つの典型的な姿です。雷自体が電気的なイオンの天から地への受け渡し(+と-の帯電の落差を調整するため)のために行なわれていることから、金属意識もこれに倣っていると考えるのが自然で、例えば将棋界のAIが出してくる次の一手の可能性等で、それらを垣間見ることができます。 ちょっと話が飛躍するようですが、私は最近、日本が実は、その土地における初期開拓者=ネイティブ民に対して、最も初期に大虐殺が行なわれた地域だったんだと思うようになっていて、縄文時代の終末の話ですけれども、なので、この件に関しても、最も早く自然と人間間の確執に対する乗り越えにとりかかっており(縄文のことがかつての原始的/野蛮人的にでなく、自然体で肯定的に語られるようになったのが何よりの証拠)、それゆえに日本人は精神性が高いと言われるし、精神的に大人だとも言われているんじゃないかなって。大虐殺による生きものが発した絶命時のダメージと、それと同時に土地が受けたダメージも、すでに回復傾向に向かっていると思っています。 なので、そこらへんをただの罪悪感で終わらせては、もったいないと思う。かつての日本で長く住まわれた、必要以上に力を持たない、主語のデカさで周囲を押しのけないで存在できる強さは、自然の中では当たり前であり、その当たり前は、すでに日本の人間の生活の中でも、静かに培われてきているのだから。 *写真は富山市の街並みに咲いてた花。冒頭の日記のページの該当箇所は、こちら。 |