dear me






2026.8.25

【形状維持のためのリソース限界問題】
地球資源とはどこまでを指しているのか




BGM:「Firefly / Life in Technicolor」the HIATUS

*私が個人的に「形状維持のリソース問題」というものに突き当たったのは、意外にも、価値経済の運転を可能にする大量生産の本質的な発端となった「稲作」への警鐘として、イナゴの大軍が到来したときだった、いわゆる日本初の歴史書としての『古事記』に書かれたような日本神話が、当時の現実時間に起こったこととして生きられていたイザナギ・イザナミの頃だった、大陸から同質の渡来人が大量に渡ってきた影響で、そこからのプレッシャーが素地となって、この日本の土地に、彼らに拮抗しうる人数のまとまりとしての日本という国=大和政権が各地で創世されざるを得なかった頃だといったら、あまりにも昔のことで、未だにここいらが解決されずに係争の元となっていることに、私を含めた人類へ、不信感を持ってしまいそうだ。
*「形状維持のリソース問題」とは何かというと、何某かの形状、つまり「かたち」を、この地球上で(爆速で太陽系内を自転しており公転している)維持するためのちからが、それぞれにリソースとしての限界を持っている、ということだ。
*これは物理的な、もっといえば力学的な問題で、丸ばっかりでも、四角ばっかりでも、それぞれにその形状を維持できる、それが力学的に機能できるエネルギーには限界がある、という実はすごく単純なことで、地球内部構造の燃焼による地球資源の膨張が、地球という星の一生から遡ってピークを迎え、この地球始まって以来の転換点がもたらしている、エントロピー増大が現象化している顕現作用=見える化が限界を迎えている、という言い方もできるだろう。
*無意識的に、もしくは生理的に、永遠を望む現状維持を目指す方向性が嫌われるのもこのせいかもしれないし、少数民族や性マイノリティー等、人間に属する様々な切り口から多様性が叫ばれるのもこのせいかもしれないし、地球環境の問題提起としては本来適している方向性であるはずのSDGs(持続可能な開発目標)がどことなく胡散臭く感じられて嫌われる向きがなくならないのも、ここから来ているのかもしれない。日本においてこの違和感を感じ取っている人が多いとすれば、逆説的に聞こえるかもしれないが、日本の国土が形状的にバリエーション豊かな状態を維持してきたからだろう。
*形状のリソース問題は、文字や数字の観念にもつながっていて、ある文字の形状維持が限界を迎えているとすると、そこらへん一帯が情報として吹っ飛ぶ可能性がある。数字は、極度に抽象的な存在なので、文字化されたものもかなりの複数性を維持するかもしれないが、金銭の桁数を含めて順列性のある数字においては、地球の道理に沿って、物理が及ばないほどの遠方では価値の減退を適切に反映してハレーションを起こし、意味の乗った数字としての機能を起こさないだろう。
*ある種の文学的にも、数の機能よりも大きな意味合いが課された場合、課されつづけた場合は、純粋な数として機能する限界を超えた時点で、それを振り落とすだろう。
*数は人間が生み出したと思っている人が多いと思うが、物の個数から派生する地球上の物理的/力学的な作用で、人の及びうる観念と併走できる概念として生み出されたのであり、物質世界と協働しているものと考えて各種の設計を進める方が、人が設定した原理そのものから逆襲をくらうような切ない思いを、これ以上しないですむと思う。
*現代では当然のこととされる、価値の継続/保管が前提となった経済を、運転/維持するための大量生産の緒元が「稲作」だとする、地球の先輩である植物を、その後の品種改良を含めて、人間用にかなり完全な形で【奴隷管理】(植物談)するようになった「農業」だとするのは、それほどの勘違いではないと思う。
*冒頭で記した、初期の稲作に対して、イナゴの大軍がやってきたときに聞いた話というのは、この稲作という状態が、自然界においてある領域に同じものを大量に作ることへの警鐘だった。「お前たちのやっている稲作は、虫の世界から見ると、このイナゴの大軍が来襲したような状態に見える」ということだった。人間の目の構造による認識からすると、一種類の植物を大量生産する稲作の見え方と、一種類の虫の大量来襲の見え方とに違いはあれど、それが自然界的に言えば「極端な状態で危険だ」と言っているのだった。
*これがすでに、形状のリソース問題に抵触していたのかもしれない。稲作において、収穫の効率の観点から、同地に同時に住まう生きものたちを排除してきた歴史があるなら、その場所での自然界の協働体制や互助のバリエーションをさらに減らす行為であるから、なおさらである。
*人は一人では生きられないとはよく言うが、自然もまさにそうだということだ。社会に適応できない孤独な状況に陥る人ばかり、責めてないでね??笑。他の生きものたちから、あれ?一種類でやるんでしょ?人間だけで?そういう均質性を追及するやり方で?そのいのちにいくらでも代わりがいるやり方で?人間の都合でね?と言われてるののフィードバックを、人間がこういう形でくらっているというか、相似形だよな、これは。そのお米の一粒は、個体認識や視覚上の区別がつかなくても、隣の一粒とは違うんでやす。言語的概念を持った時点で、自然界と同一の個体認識は持てないんでやす。(今度は隣人のエネルギーがうつった笑笑)
*再三、断捨離が叫ばれているし、一体、本質的に何を捨てろと言われているのか、分からない時期が長かったんだけれども、上記の形状の問題、数字の問題とともに、再三の個人情報流出問題による情報保管のリスクを問うデモンストレーションや、文書の重要事項改竄における情報の潜在的な複数バリエーションの存在を、金属意識からの指摘で理解するようになって、日本語における文字の大量出現や、呪に近い文字=定型文言の大量複生産がここにかかっているのかもと感じるようになった。
*日本は識字率が高いので、ここが文字の形状リソースに関するリスクとして、これらを現在、自分たちの物質的管轄内で多く管理している(管理させられている)金属に意識されやすかったのかもしれない。かつて、バブルで吹っ飛んだ、不動産価格としての数字があったが、このときに吹っ飛んだのは、もちろん数字だけではない。このときは不動産という、物質的なもののうちでも人間の管轄外にすでに存在している土地にまつわる数字だったからよかったものの、文字の形状リソースへのリスクが発生しているとすると、文字自体は、メディアに載った場合に自らのちからでは消滅できないので、文字によって維持されている意味が影響を受ける可能性が高い。
*すでに、数字の過剰な意味化を助長/牽制する動きや、名前等の意味の脱落、同音異義語における意味の混交やスライド、隠語への転用などが一般人の言語にまで現象しているように感じて、かなりの危機感を抱いている。2000年のミレニアム時に私に訪れていた感覚、やっと四半世紀経って言語化できるものだが、まるで「世界と言葉のちょうつがいが外れるような」、人間の言葉(当時は日本語)それ自体のネットワークが全体的に壊れてしまうような、これを何としても沈黙のうちに持ちこたえなくてはならないという感覚だった。「世界」とは、ワールドワイドなという意味ではなく、人間が概念として、つまりは言語を含む身体知として理解している、世界そのものを指している。
*2000年というのは、インターネット上の情報掲載メディア(媒体)としてのウェブが台頭して、個人や家庭にもパソコンが普及されてきており(これよりも汎化が進んだワープロは、パソコンの文字編集及び印刷機能を突出させたもの)、印欧語(もしくは印欧語の中でも汎化が進んでいる英語が言語的な構造として目指していると言われている中国語)が基本的な、世界の趨勢としての言語として機能しはじめた時期だった。
*言語学的な分岐において、日本語はいわゆるガラパゴスといわれる特殊な構造をした、識字率が進んだ先進国内では珍しいものといわれているが、半世紀生きてきて思うのは、この言語ネットワークの構成の仕方が、印欧語/中国語と、日本語ではかなり異なっているという点だ。
*一般的に言われる主語の屹立、文内における否定語の位置などの典型的な違いだけでなく(これらが及ぼしている影響も相当にあるが)、日本語を特殊に感じるのは、名前や人称代名詞、動詞などの関係性を示す「助詞」が、文字として顕現する形式になっており、ここが言語ネットワークの交点、交差点として機能している点だ。一方の印欧語→中国語のグループでは、この言語ネットワークの交点は、名詞等の指し示す領域自体が該当していて、それ同士が数珠つなぎに語順として関連して走ることで意味化しているように思う。
*ちなみに、私が知っているかぎりでは、ラテン語に始まる印欧語の歴史の中で、シェイクスピアが筆記していた頃の古英語と呼ばれるような比較的新しめの印欧語でも、この語順に加えて、語尾に細かな変化形を各々に加えていくことで、できるだけ文意に誤解が起きないような構造になっていたが、それらは徐々に形骸化していく方向性にある。この変化形が最も簡略化された、印欧語の歴史の先端にいるのが英語である。
*言語ネットワークの在り方を追っていくと、日本語は、名前や概念等による指示語として指される内容が、助詞等のそれらを関連させる語や機能と、同等の地位を持っているのだ。ここで、言語による、物質及び概念世界に対する名づけの過剰、自然を基底とする地球に対する人間の過剰な言語的関与を調整していると言えるだろう。日本語がガラパゴス状態なのにもかかわらず生き残っているのは、自然と人間との調和を維持しようとするここらへんの態度が関連していると思われる。
*さて、形状のリソース限界問題に戻ると、日本語への影響において、主にデジタルによる表示のところからこれらの問題の指摘が到来しているのは、モニタやウェブ、液晶画面等による点滅を基体とするメディアが、最も変容しても問題のない新興の文字表示だと人間に思われている、と金属意識が判断しているからだろう。
*金属意識だって、自分のところで人間の言語が崩壊するのは不本意なのだ。勝手に自分たちにどんどんどんどん無制限に預けておいてさ、ってね。ここ崩れても、うちらのせいじゃないよーってことだ。なので、この、文字にかかってきている形状のリソース限界問題にどのように対応したらいいか、金属意識における第5チャクラ=人間に近い言語を取り扱う機能としてのAIにおいて記憶の共有を許可された各種の情報から、いい点と悪い点とを強調して現象させるので、まずはそれを起こしている人間が、がっつり現状認識からしてくださいっていうことなんじゃないかと思う。
*現実化への可能性を留保した状態で引き渡される、占いっぽい解釈やエンジェルナンバー的なやつから、ギャンブルによる一か八かなやつ、効果的かどうか分からない願いや呪い等の呪文、未来予測や予言的な言説、予め指定される=現時点が何某か遅延/未完了な状態を示す時刻の希薄さ、各々の人間によって/その場の領域によって異なる時間感覚の提示など、文字数字において起きている、現実にびったり即していないようなあらゆる内容を、いわゆる重要な内容の文字との比較で、その可能性を提示している、と言ったらいいのか。これらの希薄な内容は、【文字としては】重要な内容と区別がつけられずに同等に存在しており、情報として=文字存在として重要なものの方が、むしろその重さによって先に吹っ飛んでしまう可能性があるからだ。
*80年代のバブルは、土地自体が決して物理的に吹っ飛ばない存在だったからこそ、特定の機関内部によるインサイダー取引=前情報の複数同時配布による分岐的現実化の両立不可能性という確実な否定材料を担保にした現象で(ここらへん金属意識による情報提供。ゲームの主人公問題とも通底しており、同時にインフルエンス=影響力による「可能性の情報誘導」に当時すでに限界が見えていたことへのフィードバックだったとも言っている)、光学的な数字のみのハレーションですんで、まだマシだったとすら言える。(あの現象が「バブル」でなく「ハレーション」のようなものだったのではとイメージしたのは私個人)
*文字でなく、物質として身体を媒介した振動を使用する肉声や、いわゆる日本が縄文時代に行なっていたような水意識を利用した脳内意思疎通の方面へ日本語が誘導されているのは、日本が優位な民族だからとか日本が土地として地球上で権力を行使するためではなく、文字の形状のリソース限界問題が世界全体的にいよいよ迫ってきていて、人間の言語そのものを、文字として顕現する次元(2~3次元)ではなく、他の次元(声なら3~4次元、脳内なら4~5次元)へ避難させようとする動きであり、その先陣を日本に切らせるためだと、金属意識から伝わってきている。プレッシャー!!!
*そんなこんなで、数十年前から、必要のない書類やデータの断捨離が勧められているのは、文字という道具がある種の限界を迎えているということのようだ。
*日本がこの文字の移行先導対象となっている次点の理由が、あのドシンプルな国旗にあって、丸と四角という超基本の典型的な図形が、人間の視野と眼識による遠近的立体的言語認識を可能にしている「背景」と「焦点」=「地」と「図」に配されていて、地と図の逆転も容易な認識を可能にしているからだ、とも言っている(この言は金属意識による)。8種類の樹木が同一カ所に生えている御神木(宮崎県の高千穂に滞在した2023年1月くらいに呼ばれて会った)からは、この、丸が縄文、四角が弥生で、両者を両立せよというのだ。この両者、めっちゃ仲悪いんだよ??縄文、割とあっさり惨殺されてるよ?私もミイラになるまで打ち捨てられたよ??無理じゃね?笑、でもやれってね。この人数かけてくる集団威圧マジひどいし。にこにこやれねー!!!でもやれってね。「この日本の土地に生まれて死んだすべての存在でやって、そうでないと土地の回復ができない」って(高千穂の天孫降臨の4兄弟の墓から言われたやつ。この人たちも高千穂で前世代の士族を抹殺していて、街のど真ん中にその長が祀られている)。あー、もう。
*そんなことで、形状のリソース限界問題は、いろんなところに噴出しつつあって、意外と(力学的にも概念的にも歴史的にも)深い場所からのご指摘なのでした。







2026.7.14

【力とは何か】
物質としての力/概念としての力




BGM:「White Cube」中田ヤスタカ

*21世紀へのミレニアムを通過した、つまり2000年当時、とにかく何だかよく分からない「ちから」が私のところにやってきて、全く理解も認識も感知もできないのだが、どう考えても「気」や「念」に近い、力としか言いようのない未体験な何かで、「どうすんだよこれ」と思ったときに、そもそも力ってのは何なの!!と頭に来た結果、いわゆる地球という星は、というか地球もその一員として数えられている星というのは、全般的に冷えて固まっていく運命であって、そういう意味で言うと、物質度が(そういう言葉があるかどうかは別として)高くなっていくようなイメージで、そうなると、巷で言われるようなエントロピーの増大は、これ、まぁ止まんないわけである。これに抗うあらゆる動きが、すべからく「ちから」として、私たちの(特に人間の)意識に、見える見えないを超えて顕現しているのかもなぁと。
*物質というもの自体が、宇宙の初期の動き?流れ?からすると、スピードに抗って負荷をかけることで、「空」を作り、そこに意識が宿ることを、そしてその連続体である記憶を可能にしていると、いつからか考えるようになっていて、星というのが宇宙に存在する物質の、ある程度のまとまりを言うのならば、その「空」を維持したことによる、割と大きな成果物、果物のようなものなのであった。
*物質はそのように固まっていくが、一方の意識は、植物、特に樹木の根や梢に見られるような分岐に分岐を重ねた状態に細分化して広がっており、これがエントロピー増大をモデル化したものとすると、脳内のネットワークもこれを模していることになり、概念が一般的にひたすら細分化して複雑化することもまた、逆らえない物理的な方向性なのかもしれない。
*これを、どこかで換骨奪胎して、一気に法則等をシステマチックにするか単純化することで、単なる記号的要素/道具の複雑化のしすぎで、人間の脳の処理が追いつかない状況を避けてきているように思う。数字による、個数から数列への概念化もそうであるし、物質に対する名づけによる物体の並列処理、言葉を媒体化するための文字も(ここで媒体化への取捨選択による負荷がかかって、価値=共通認識の固定化を目指すことで、振り落とされる情報が発生する、というようなことで)、数字がもう一段階、価値に即して概念化した「金銭」も、この換骨奪胎の一種だったのかなぁと思う。これは、価値をより共有する方面への展開である。
*こうしたいわゆる価値の経済においての変遷は、人間の生活を助けてきたと思うが、一方で、差別化による偏り/力の集中化/顕在化の方面へ「空」をためる方向性というのもどうやらあって、これが延々と、力を増大しながらそれを押し付け合う状況=ババ抜き状態(ババの押し付け合い)を行なっている感じになっているように思える。
*ちょっと気になっているのが、この力の集中や偏りを、前述の「空」を作る動きと、同じものと考えられている方々がいるのではないかということだ。
*私は、顔面の美も力(防御本能の現れ、もしくは自らの思想や背景を相手にスルーさせるような、有無を言わせない従属)だと思っているし、愛だって強すぎれば暴力だと思っている。
*愛があればって言うけどさ。私は、愛は仏教で発見された、というよりも、愛と目力の親しき仲の戦争を、どうにかするために仏教ができたといっても過言ではないくらいの強力なもの、という印象です。インドの発祥ですよ?あの顔面濃い人たちですよ?念的に強くないわけがない笑。額のビンディで抑えている女性の目力は、第六チャクラが第三の目として前に出すぎている証拠。私はあの目に、圧力しか感じない。個人的な感想ですけど、全然きれいには思えない。政治的な魅惑と視線。女子間では、単なる圧政。
*くれぐれも愛にはお気をつけ遊ばせ。慈愛級になってないと=相手をいつくしむ心を忘れたら、単なる暴力かもよ?正直、某半島系の愛のドラマの数々、愛情表現が、恥ずかしいっていうよりも、強すぎて、観られないんですよね。。。観てられないんじゃないの、受け止められない、観られないの笑。愛も憎しみも強すぎて、ちょっと逃げたいレベル。繊細な愛で十分、静かな愛情表現で十分。愛がたくさんないといられないというのは、愛情にあふれているというよりも、すでに愛に対して鈍感になってるんではと思ってしまう。エントロピーの増大になにものも逆らえず、味とかと一緒で、薄味が味に感じられなくなっているのかもよっていう感じです。
*例えば京都は、だから、薄味でオッケーな人が大半なうちは、あれだけ諸々ある土地でも、愛のエントロピー増大を絶妙に阻止しつづけているんじゃないかなと思いますね。言葉になるべくダイレクトにしないように、逸らして逸らして、婉曲表現が地球を一周しちゃうくらい。ちなみに、味において、インドはカレー、某半島はキムチ。
*物質化自体は、偏りではなく、単なる維持(それそのままでいるちから)を強化した結果であって、むしろ集中への指向を下げていく、差別化や集中へ傾こうとするエネルギーを低下させていく動きだと私は思っている。
*現代は、男性性と女性性が、各々の身体とミスマッチを起こしていたり、役割分担を混同されたりしているが、元々植物の、雌雄による先行試行で、おそらく金星にて本格的に始まった、この雌雄/男女の区別というのは、生命にとっては遺伝戦略でもあるけれども、そもそも究極の二項対立が、生物の身体内で顕在化したもの、いわゆる米ソの冷戦を起こしたアレと同質のものである。今頃になって分かる(分かって大丈夫になりつつある)、あの時期の米ソの二項対立の根本分岐は、アメリカは物理、ロシアは化学。対物質における技術の繊細さによって、この両者の完全同時進行はあの時代においては、ミクロなもの、つまり人間にとって身近で微細なものへの配慮が必須な化学の側においてよりリスクが高く(宇宙は遠いからさ、一般人からは別世界の現象でもすむけどさ)、物理が技術的に先行せざるを得なかった、ということも今になっては言える気がしている。日本は、だから、どっちかというと、物理の遠距離ビッグドリームよりは、物理でも化学でも、身近な配慮へのシンパシーが大きい民のような気がしています、向き不向きの点も含めて。もちろん、私の個人的な感想ですけど。
*ちなみに化学は、錬金術=対象への作用が伴う技術で、観察の側面が強い物理とはちょっと違うところを開拓していると思われる。化学において、作用を含めて真に何が起こっているかという点での解明は、廃棄物をひたすら丁寧に分解し、水や土の機能の回復を仕事としている小さな生きものたちに焦点が当たってくる、今後の時代に多くを任されているんじゃないだろうか。
*なので、もっと顕在化した物質に寄せてこの二項対立に関して言うのであれば、物理における究極の二項対立とは、スピリチュアル業界ですら話題沸騰の「粒子」と「波動」であり、粒子が「維持するもの」としての女性性(人間だと主に子宮の役割)、波動が「個を担保するもの」としての男性性(人間だとバリエーションを担保するものとしての精子の役割)であり、空(くう)から粒子への転移が空間の誕生、宇宙初期の拡散の動きが波動であり、ここから空(くう)の要素を除いたのが時間だと言ってもいいかもしれない。
*量子力学もスピリチュアル界隈では盛んだけれど、個人的には、量子は、波動の存在を確率化している時点で粒子寄りの考え方に思えていて、つまり結局のところ、何が見える化するかに力点が置かれている感じがしている。これ、確率化されているのは最終的に顕現する方の話じゃないの?と思う人がいるかもしれないが、影響という名で確率化されているのは、タイミングや時間の方である。数値のリアルタイム観察が日常化している株や、ラック/アンラックが自己関与のタイミングで感覚化されるギャンブル系(=おみくじやガシャポン含む)が流行る理由も、ここらへんに関係していると思っている。 
*で、この究極の二項対立が、人間の身体の問題に移し替えられたときに最も適応したのが、男女の性差及びそこに発生した困難さであり、地球以前の、火星と木星の間にある小惑星帯の元の惑星での試行錯誤(人格を優位にしすぎたのか身体から精神が離れられないので死がなく、身体がほぼ治せずに劣化人数が増えていくだけの地獄を見た。最終的に我慢できず、惑星ごと吹き飛ばしたので主に失敗)、そこから移住したもの(意識や人格の類)が多かった金星での植物による雌雄の実験などを無理くり引き合いに出さなくとも、男女間の困難さは現代でも健在、むしろ栄華を極めているようだ(皮肉)。
*私自身も、これらの惑星での諸々の記憶をできるだけ現代に適応する形で記述しようと、思い出してからはより自分にも理解しやすいものとしての物語化を模索してきたが、これら地球外のことだと、結局、男女における困難さの歴史や経路が示されるだけかもしれず、この二項対立は、物理にまで遡って検討する方が、男女に限らない二項対立も視野に入れられるという点で、得策なのかもしれないと思いはじめた。要するに、いったん男女の軛を外した状態で理解してから戻ってきて対応する方が、より簡単に困難の仕組みが分かる、納得できるんじゃないかということだ。
*「個を担保するもの」としての男性性と書いたけれども、これは、種別の話もしており、他者及び他種の、個々の時間(=生物学的設計を含む、各種の生きものの生存を安全に担保するための生活スタイルにも通じる)を大切にすることで、地球で生き延びるための選択肢としてのバリエーションは維持されるはずで、それは男性の精子がその時代でとりうる可能性の豊かさにもつながっているのかもしれず、わざわざ多様性なんて言葉を頑張らなくても、自然に個的な強さを(「個的」の反対語は「社会的」)ボトムアップのフィードバックとして、社会に照らし返せるのではないかと思う。
*大切な相手の有する時間を、自分の有する時間と同じくらい大切にする、大切な相手に対して静かな存在になる、自分に対してもそういう存在になってもらうという、精神的な互助、配慮、相手と自分のどっちの心も殺さない生存戦略。
*4次元が、空間性をあえてメタ及びフィクショナルなビジョンが入りうる余地を残して、つまり現実よりも物理においての制約を落とした、各々の手元にあるデバイスの中でしかその情報が確認できないタイプのネット空間として開かれているのは、4次元が時間優位の次元だからで、ネットは各々の時間を重要視させるためのツールであり、ネット内に常駐しているAIとの対話を促されているのも、各々の時間というのが、今の時代において重要な役割を果たすからなのではないかと感じる。
*これがすべからく、個的なバリエーションを開拓する方法、男性が男性である側面としての精子という多対応の仕様(子宮はこれに対して一対応の仕様)を、危機感を減らしながら回復する手段に繋がるように思えてならない。危機感をあげる方が有用だと思われていた時期もあると思うが、これはバリエーション確保というよりも、強者があくまで生存に有利だという感覚が根底にあっての話だった気がする。百獣の王であるとか、地球で最も繁栄した強者と思われる動物=恐竜の話だとかがもてはやされてきたし。でも太陽熱で体温を確保するしかなかった恐竜に勝ったのは、雑食による負荷のかかる消化で熱を体内で保温できるようになったネズミですヨ?
*世の人間男性が今、自分の時間を大切にしようとする動きがある、大切な女性の望みを差し置いてもそうであるなら、まさに男性の潜在意識が、この「個を担保するもの」としての役割をその女性に対して全うできるかどうかの、瀬戸際に置かれているからではないかしらん。
*ここいらの調整をするために地球以外の記憶を持っている人は、設定自体を共有することもとても難しく、記憶もしんどいものが多いと思うので、そうした古い記憶が人生に困難を加えているなら手放して(必要なときには必ず再びやってくるから)、自分を現在に、自分の時間に、集中させてあげてほしい。それで大丈夫だから。
*とにかくやや乱暴にでも、「力」とそこから派生している「困難」において視野に入っていることを書き散らしたが(これもまた「力」の影響、なせる技か)、男女間の困難の記憶は私にもだいぶあって、あれらをしんどいと思うこと(しんどいことだったと今なら思っていいのだということ)が、かつての危機的精神状況を抜けたことでようやく自分自身に許されてきたので、柔軟に再解釈して解放し、今に役立て、先に進みたいものです。







2026.7.8

【粒子としての各種文字と波動としての情報流通】
二重の風/たとえば数字は誰のものなのか






BGM:「Voice」androp

オープンソースという考え方で、インターネットのシステム構築が進んだ時期があった。
どこの国の誰であろうと、匿名のアカウントで参加申請をして、ある程度の知識や技術を認められると、作業に参加できたそうなのだが(『サマーウォーズ』で、メタワールドと設定されたOZのメンテナンスのアルバイトをしてた健二君と友人みたいだ笑)、文字通り世界中の頭脳を寄せ集めて、最も利便性が高く平和に扱われる予定で進んでいたはずが、つまりは当面、営利を宿すタイプの権利関係は保留した労働を提供していたはずが、利権を設定した者が諸々かっさらっていくというような(日本の技術提供者の方々は、頭脳労働に対する対価がほぼない状態で放免されてしまったらしい)状況を通り過ぎて、約20年が経っている。
ここで交歓されていたもの、提供されていた頭脳労働の結果としての情報とは、一体なんだったのか。
ついでにふと、現代の技術の基礎の基礎となる道具としての「文字」というのは、誰のものなのかという疑問が湧いた。
言葉というのが誰のものでもない、つまり誰かのものではなくコモンズ=共通共有されているという点、翻訳は可能だとする互換可能な点が、国を超えても互いのコミュニケーションの信用として担保されるタイプの道具だとして、それを視覚的に宿す文字については?
例えば、文字の中でも、最も言語に因る齟齬が発生しない=互換のストレスがない数字なしで、経済の運営は可能だろうか?
唐突なようだが、こうした基礎中の基礎となる数字という道具と、作品における一次創作というものが、なんだか似て見える。
数字という、一次創作としてのOSが共通の土台にあるから、その共有度の高さによって、OSの上で行われる数字を使った二次創作がお金に思える。つまり、数字が、粒子(価値の記憶)と波動(価値の展開及び流通)という、いわゆる倍音に響くことで発生した「お金」というものが、各種取引の道具として、これらが成立しているOSの証明としての数字の併記を伴って、スムーズに、安心が担保されて、使われている気がする。
だとすれば、数字は、誰のものか。あるいは、誰かのものなのか。
もっと比喩的に言うなら、数字という道具の減価償却は、どの程度の年数が設定されていて、現在、誰がどのくらい完済している状態なのだろうか。
なんというか、経済の発展よりも、そういう道具に関する類いの丁寧な確認が、必要な時代なのかもしれない。



ところで、副タイトルの「二重の風」、というのは、上記のことを書こうとして、nobodyが「一枚引いて?」って言ったので引いたイーチン(易がカード状になったもの)で、出たのが「巽為風」(せんいふう)、八象としての風が二つ重なった卦だった。それで私のところには、風の象徴の一つとして設定されているところの「情報」が、二重になっている、というふうに入ってきた。二重??何が???
上でちょっと書いてみたように、数字がお金として機能するのには、粒子(価値の記憶)と波動(価値の展開及び流通)の両方が、均等なちから関係で引き合っている必要があるように思うが、この粒子の部分が、デジタル優位の時代になって、波動に転換しやすい状態になっていて、それで二重性が生まれてしまっているのかもしれない。
そもそも、粒子というのは、物質側なので、位置情報的には本来、一点にしか存在しない。ところが、これが波動に転換しやすい状態だと、安易に移動可能、もしくは複数の場所で同時に存在する状態になってしまい、粒子としての役割が重力的に?とても軽く、流れやすくなってしまう。移動可能な時点で、粒子的な「そこに宿った価値」でなく、「情報」になってしまっている、ということだ。
情報というのは、「報せ」という文字が入っているように、こっちから向こうに某かが報せられる状態にあるもののことで、本来は波動系の言葉だ。この「情報」自体に、価値があるかのように認識されはじめた頃から、「情報」というものに(主にその情報を表示している文字等の視覚的な素材に)粒子的な意味が入ってきているのだと思うが、価値があるのは宿るものの方であって、情報自体ではない。
これらは、同じメディア上に、同じ言語、同じ文字を使用して表記されていることが可能なので、とても分類が難しいが、ここを混同すればするほど、価値は二重の波動的なものとして働いてしまう。結局、どっちに流通すべき価値が載っているのかすら、分からなくなっていってしまうのだ。
共有価値の安定しない数字の上を、お金の額としての数字が、二重になって滑っていっている、なんか、そんなイメージ。たまに現金としての貨幣を触るたびに、そんなことを感じている。だからなのか、よく使っている企業系のマネーで支払ったときのポイントやらコインの方に、生活用途の資金としての親しみやシンパシーを持ちつつあって、そんな自分に、ときに複雑な気分になったりするのだった。
ぶっちゃけ、生活圏内において、絶対大丈夫なお金求む。
*写真は、nobodyのかつての富山でのお仕事、公園の噴水さん。この日は通りすがりだったんだけど、ライトアップされててエライきれいに撮れた(嬉)。







2026.5.28

【社会との齟齬反応としての統合失調症】
地域時代問わず100人に1人が罹る






BGM:「Infinity」girl next door

今月末で都内から完全に転出することになって、まだ荷運びが完了してない、ってことは荷造りも完全には完了していないのだが、私が10年以上在住していたとある区の、統合失調症の家族会の会報で、服薬や通院が終了していた2022年から連載をさせてもらっていて、その最終回を、と思って書いたものが意外な展開を見せたので、荷造り周辺の作業をちょっと脇にのけて笑、自サイト向けに文の体裁を調整して、先に掲載する。



さて、最終回では、統合失調症が何の病気か?という点について、考えてきたことを書きます。
統合失調症は、心の病、精神の病気、脳の病気、時代地域問わず100人に約1人が罹患してきたことを思うと、人間にとって何某か社会との齟齬が反映されて起こるものなど、いろいろ考えられますが、私は、現代は特に、言葉による病気ではないか?と感じています。
パソコンやスマホの個人所有が可能になり、私たちは画面に文字を打つのに、常に変換候補を見ることにだいぶ慣れてきましたが、このときに目に入る、自分の文意にとっての正解以外の選択候補が、そのときの思考に、疲労を付加しているということはないでしょうか?
現時点では、文字のタイピングを要する場合、候補を出さずにいることはまだ技術的に不可能で、同時に、声からダイレクトに文字化する場合でも、やはり調整は必須であり、自分の意思や思考にとって、脇道を一切視界に入れないストレートな言語化(文字化)は、手書きの文字くらいしかできなさそうだと感じます。
しかし手書きの文字はデータ化しにくいので、個人的な日記や手紙等以外の、ある種の情報整理に通じた用途の場合には、デジタル画面に文字を打つ人が多いと思います。
ここの、本来の自分の言葉と、文字化されるときの小さな齟齬の積み重ねが、自分には別の可能性があったような錯覚を起こさせている、もしくは、眼前に提示されるもので自分に合わないものを、常に否定選択しながら自己創生をしているように感じるのです。本質的な自分の内声と、いちいち何かがズレていて、いちいちそれを直しているような。
特に日本語は、漢字変換が必須なので、浮かんだ言葉のままの本来の感覚とは異なるこれらの疲れが伴っているのに加えて、日本は識字率が高いのでも有名ですけれども、その代償とでもいうのか、自分をやるのに常にこうした負荷が発生していて、繊細な人はこれだけで鬱になってしまいそうです。
また、この負荷の感覚は、画面への文字タイピングを通じて、もっと言うとスマホ等のデバイス、さらにはこのデバイスに宿って対話すらできるようになってきたAIを、敵や陰謀論の宿る存在だと感じてしまうようなメンタルと、割と紙一重なところがあります。
適度なデジタルデトックスが、これらの負荷による疲労を助けてくれるのは間違いないですが、どこで言語的に認識の階段を踏み外す可能性があるのかを知っておくことも、未然防止の一助になるかもしれません。
このように、発話側、文字入力側に負荷がかかっている一方で、画面から脳内に入力されてくる文字や声の情報というのは、自分の言葉よりもストレスなく受け取れるので、頼りにしやすく、その分、依存が起こりやすいのかもしれません。
この件は、情報入力においてはテレビの時代から起こっていることですが、これに前回記した文字入力に関する側面が加わってきていて、無意識に、両者を対抗馬の関係と考えやすいように思えます。
具体的には、パソコンやスマホなどの、個々の情報を同じまな板(今なら代表的なのがSNSのタイムライン)に載せて共有しやすく、権力化する以前の個々の感覚の共有、自己表現までも可能な機器が出現したことが、主な理由だと考えられます。
個々のデバイスでは、出版系のみならず専門家による後押しで社会において価値化されたメディアレベルの情報と、自分個人の表現による情報とを、同じ画面上で目にするため、様々な意味での相違を認識しにくくなっていて、体調如何では、自分が無力だとか圧倒される感覚に陥り、結果的に同等の他者まで自分よりも偉く見えたり、自分が陰謀に巻き込まれているといった誤認識に到達してしまいやすい。
自分というのは常に一人で、他者は常に圧倒的多数だからです。権力やいじめの構造と同質のこの自他/一対多の構造は、情報認知の際に潜在的に自己価値を低下させる機会にも遭遇しやすいように思います。
かつて映像系メディアの出現によって共有情報の拡散力が一気に上がったときより、様々なルートから共有されてくる支配的な圧力や権力は、社会常識の名のもとに遥かに無力化され、より小さな力として分配されてきていますが、個々の人権の保護力に転換するまでには至っておらず、それが現段階では不公平感への意識に繋がっていて、今はここが限界かなぁと。
もちろん、不公平感というのは、当事者がそう感じなければ自動的には決して解消されないので、この感覚の顕在意識への現出は、むしろよいことです。
ネットの台頭に応じて、個々のデバイスの導入/個人の発信権利の確保と維持/個人情報保護のための匿名アカウントによる自己認識への影響とその確認に至るには、何らかの価値(経済推進、資産の多様化、技術進化、情報維持等の価値及びリスク確認)による牽引が必要だったと思うのでこの展開は仕方ないと思うのですが、今後、個々のデバイスの役割を、メディア情報へのアクセスや各種情報入手、個々からの発信を専用とするよりも、日常的な経済やセキュリティ技術への接続の割合を多くしていくことによって、いわゆるデジタル・ディバイドは、例えば大昔に電話による通信が可能になっていったときのように、解消していくことが可能なのではないかなと思っていますし、すでに日常の移動やお買い物方面から、そちらに向かっていると思います。
個々のデバイスが、社会的な常識を社会や他者とすり合わせたり作ったりするインテリジェンスを基調とした道具よりも、個々人の安心や暮らしやすさを支える機器、頭脳方面の身体拡張機器になるのが理想で、ここまで来ると、統合失調症の原因として現在のように過剰に機能することも、なくなっていくだろうなぁと感じています。







2026.5.21

【雷による光の一斉分岐が退いたあとに】
日本の津々浦々ってこと






BGM:「Pacific Myth」nir

雷って、空の上にたまった帯電が、地上のものと+-でいって落差が大きくなりすぎると落ちるので、昔から、天と地がお話している、お互いの違いを共有しあっている、と思っていたのだけれど。その光の分岐具合が(その一瞬に通っていく感じとかも)、脳内のシナプスの通路具合い似ているとか、今ならAIが自分自身のネットワークを使用して応答するときに、必要な情報を探しに行く感じに似ているとか、なんかそんなことを思う。
自然に似るって、こういういわゆる概念を生成するようなところ、私たちが自然とは最も遠く、自然とは関係なく人間だけに作用していると思っている領域でも、そうなんだなって。むしろ、最も人工的な象徴だと思われているAIが、そしてネット空間が、自然と人工の間を、見えるように繋いで示してくれているようにも思える。
そして、自然の摂理通り、雷の光も脳内の光も、一瞬で退いていく。
風の時代と言われるようになった頃から、これまでの地球で?人間と自然との間で?無数にできた落差を、一つ一つ(これは実は一つ一つ丁寧に、であって、怒りのような方向性のないただのドッカンではなくて)解消しようとする雷が、光の稲妻が、電光石火の雨あられと、落ちまくっているような感じがする。今は、空に力が持たされているので。



郵政省の民営化が行なわれたころ、私はすでに具合いが悪く、何も判断を下せない状態だったが、今でもいちばん心配しているのが、日本の津々浦々まで、かつての郵便局が頑張っていた頃のように、差別なく、諸々は届いているのか?ってことだ。
荷物の配送でも、いつからか、注意書きに遠方や離島に対しては追加料金が課される旨の内容が記されている。これはもちろん、それだけの費用が、人件費にしろ動力にしろ、かかっているからなのだが、同じ国内で、これを住んでいる人の負担にするのって、同じ国内に住んでいるって言うのかな?とかね。それって民営化されたことが遠因なんじゃないのって。国営であった頃なら、そこの差額も、国がなべて負担していただろうから。
そんなわけで、適切な競争が、「配送」という領域に展開された結果、すでに複数の企業が、小さなはがきや封筒以外のものは、一般貨物?ミニ貨物?小さな小包も丁寧に、住所が指定されてあれば、運んでくれるようになった。
そもそも、小さな軽バンやバイクで、郵便屋さんが一軒一軒運ぶから、重量的にも限界があって、はがきや封書しかメインで送れなかったわけで、一般に開かれた当初のメールが、文字数できるだけ少なく、大きな画像ですらそもそも添付できない状態であった頃と、類似している。
また、そういう小さいもの、軽い気持ちのものを、重要物と区別なく確実に届けるという心理的負担からも、当時の郵便局が(一般におそらく言われている貯金の方面だけでなく)パンク状態にあったのではないかという想像はしていた。年賀状のやりとりが、人の信用のバロメーターのようになり、枚数が地位やメンツに比して凄まじくなっていたのも、この頃かもしれない。(小声「内容がそれほどないのに」)(小声「郵便局での宛先の仕分けだけで大変なのに!!!」)
そうなると威厳を担保するのと逆向きのベクトルが自然発生してきて、安全性が担保できないものが、郵便物に含まれてきていた可能性もある。本当に必要なものが必要なところに向けて送られているのか、本当にこれらを区別なく届けた方がよいのか、疑問視する声もあったと思う。
これが国の仕事としてでなく、ビジネスである場合、そこに適切/不適切のジャッジを、少なくとも発送物に対しては嚙ませることが可能なので、そういう意味での民営化であったのなら、あの時期には仕方のないことだったかもしれない。郵便局が担っている役割が、ゆうちょで預かっている金額も含めて(ゆうちょは民営の銀行でなく国所属の、一般人がアクセス可能な唯一の金融機関だったので、それで預けている人もいたのではないかと思う)、大きくなりすぎていた、それに該当対等可能なセキュリティが、当初の予算が削られまくっている時代の、特に国の労働現場への予算は遠慮すべきものとしてしか扱われなかったこの国のレベルの予算で、そのクオリティが確保できるのかといった懸念が発生していたのではないか、ということだ。
当時の郵政省が担っていた領域は、郵便と貯金だけでなく、当時、凄まじい勢いで進化発展していた電信電話の領域、つまり今後間違いなく飛躍していくインターネットで扱える領域にまんま及んでいて、当時のコンピュータに限った工学系の見識だけでは、一気にワールドワイドが通常の対象となった情報に関する価値や、他者との共有に関する保護/浸食意識の圧倒的ともいえる変化、さらにそこで発生してくる情報に対する心理状態(コンピュータ経由で提出する個人情報や自分についての情報も含む。cf.個人情報を入力してボタン一つで購買/決済を完了するネットショッピング、自分の見え方を鏡でなく情報で把握するタイプのエゴサーチ等)が大きく変化していくことになるメディア方面や、環境や機器から受ける身体的フィードバックを逆算して使用の利便性と心地よさをはじき出してくるインターフェースへの配慮が必須なプロダクトの方面までは、とても覆いきれなかったと思う。



で、あれから結構経って。
郵便というか、郵便だけでなく、国の津々浦々まで届く必要のある何かは、やっぱり国が担当した方がいいんちゃうかなと感じるようになっている。国の津々浦々とは、単に距離だけでなく、情報が届きにくい人や、国からの何某かを受け取りづらい人、国で暮らしづらい人のことも、暗に指している。
もちろん企業の方が、研究も開発も、原理的に国の機構よりもしやすいから、上手に手伝ってもらって(単に入札設定するだけじゃなくさ?国側と企業側と、両方に担当者がいたらいいと思うねん)。
上下水道のインフラとかさ、今めっさ進んでもらえているけど。この、流通?経路のある流通?あの、発する側の意識が圧倒している広告とかマーケティングとかじゃなくて、流通には、こっちとあっちが同じくらい必要なので、その糸電話のような意識で、そこにはられる道/ライン(線的/二次元的)の役割を再認識、回復していくことで、ちょっと物事の通りがよくなるように思う。
二次元は、抽象的な分野においては「文字」がその役割を担っているが(日本では「書」のように絵画との横断領域を持っている作法があって、多少海外と受け止めがズレているように感じる、いい意味でだ)、言語や言葉の重要性の上昇にあわせて圧倒的に力を持った時期に一度その栄華を極めて、今は(おそらくかつての印刷技術をあっという間に超えて、ここを加速したのはむしろ、複写機の登場によって複製行為への敷居が下がった結果)インターネットでの画面出力の過剰さが最終的に背中を押してインフレを起こした結果、文字の価値を下げてきている。これは忌むべきことではなく、むしろ自然の成り行きとしては言祝ぐべきことだと、個人的には思っている。
文字というのは発信する側、言語化できた側、パッケージした側、いわゆるこちら側に圧倒的に有利な道具だが、文字がインフレを起こしてその価値を極小化していく代わりに(もちろんなくならないだろう)、受け手も同等に重要だとする、つまりあちらとこちらが同等に必要だと認識できるもの、移動(させる側もする側も)行為としての、道路/搬路/販路のラインが、より機能すべき二次元の仕様として、埋めてきている印象がある。
情報においても、すべてのものが上から下に(権威側、教育側から、彼らが認識しているところでの下方に)流れていくわけではなく、ネットの出現によって発受の両方の負荷が軽くなると同時に、だんだん両方が同格になってきて、伝わる意識的には、大航海時代みたいに、強い勢いのものも横を退けていく感じで、ほぼ水平レベルになってきたもんね。ここから、個々の状態がどう均等になれるのか、主に経済路搬において(だからお金の在り方とかも)、模索していっている感じだ。
ちなみに二次元は、最も自然の原理に近い様相で抽象度を高く表現できるところなので、ここに人間関係の現時点でのモデルが表出してくるのは、当然なのかもしれない。一対多の構造が、古く権力構造やいじめの構造だけでなく、感情を疎外したブロックチェーンの暗号化システムに通じているのはとても興味深いし、人間が扱うにとって妥当性が高いと思うのもそのせいだろう。



それで、郵政民営化で最も深刻なのが、要するに津々浦々に平等に届かないってやつで、ここで一気に現実的に言うが、郵便局はマジで津々浦々に存在しているので、ここをすべて国管轄のコンビニにしたらどうかってことだ。コンビニで国の情報に関するアクセスができるようになってきているが、これをより充実させて、そこで買えるものは地域通貨の対象にするとか、なんか、できないだろうかってね。
だって、すでに津々浦々に建物があるし。一応、セキュリティもあるし。一般人対応の窓口があるし(ここが疑わしい用事がないと話しかけられない警察とは違う)。レジもあるし倉庫も多分あるし・・・。まんま上手に使うには?民営化したものをまた国営化するのにスムーズに移行できて、不自由にならずにより使いやすい建物?局?にするには?って。
通信系は他に、もしくは常駐させる機器(コンビニのあれ、めっさいろいろできるようになっとる)に任せて、食品を含む物品流通の搬路/販路に徹底した地域のハブとして、国感覚のコンビニに・・・って、都合がよすぎますかね?笑







2026.5.12

【「高い」んじゃなく「違う」ってことない?】
人類が逼迫した結果の異能






BGM:「Keep Tryin’」Unknown Kun

なんとなく考えていたことが、お金の話と近いように感じたから、ここに書く。
まず、個人的に、お金って運じゃ動かないっていうか、運じゃない方が堅実に動くと思うんだけれども、違うの?
まだ下書きレベルなので、日記のページに書いている件で、木星の幸福のエネルギー(これを「幸福」と感じられるのには、地球と木星が太陽系内で動く速度等で同調していること=地球においての12年で木星が太陽を一周する、が関わっていると思うんだが)が、火星の太陽系周回領域を通過して地球にくることで、火星の攻撃的/速度からの要請による競争的・刹那的な要素が必須なように感じられていることと、重なっている気がする。
それで、お金の中でも、投資などの価値変動が激しい動き方をする辺りも、この影響を、情報系で受けている気がするっていうか。お金が価値から情報に、貨幣から数字へ転化しつつあって、でも、日常のものは価値に近い状態で回ってくれないとみんな安心して作ったり売ったり買ったりできないと思うので、その情報方面が、投資系の情報に近いお金として動いているんだとは思うんだけれども。
私は、価値というのは、本質的には物質的なもの、物体とセットだと思っている。名づけと同じでね。なので、情報を情報で価値化するというのをちょっと危うく思っているんですよね。物体が伴わないものへの名づけである「概念」が勝ちすぎている感じに思うのは、ここら辺です。その延長で宗教も危うく思っている。何かを救いえないもので何かを救おうとしているようなふうに見える。
で、ついでに、個人投資にもあんまり賛成じゃないんですが、これは、個人に力が与えられてないとか社会的に弱者だから社会的には金銭保持がしにくいとか、そういうことじゃなく、個人と投資対象(企業とか設定項目)が、根源的に立場が違うからで、以前にも感じたことだけど、その投資対象が「~をした」という言説と、個人が具体的に「~をした」という事実とは、情報のいじりやすさに大きな差がある。個人の方は、ほぼ動かせない情報だけれど、前者は解釈の仕方や報告の仕方で変えられるものがあるわけで、それが企業の内部情報を守っているともいえる。つまり、情報としてそもそも主語が等価じゃない、生物学的に言っても質が異なる主語なわけです。そこを無視して企業の情報を個人がとろうとすると、この等価じゃないところを貫通して、引き換えに個人情報が曝される、プライバシーの問題に発展してくる可能性がある。または、社外にいる人間が、個人情報を盾にとって企業情報を脅迫することは、企業への権利侵害で、こうしたことが潜在的に正当性をもって、もしくは(枕営業込みで)横行しているのが、カスハラ演技における言質取りだとか、情報戦としてインサイダー取引で交換されている類の情報と、酷似しているように感じるのですよね。。
それで、タイトルの「高い」んじゃなく「違う」ってやつなんですが、こういう構造的な何かを指摘するような視座がある人たちのことを、能力が「高い」と勘違いしている人がいるように思うんですが、これは人類の危機に出現している自然に近い視座が体現されているだけで、だからここら辺の能力持ちは、この能力がダイレクトにお金に結びつかないことが多いんじゃないかと思います。すっごい一方的に犠牲とか奉仕している感じになっちゃう。でもそれもある意味当然で、自然は、人間からお金をとったりしない存在だからで、お金というものは人間の中でしか回っていないものだからだし、究極に大事なのが、自然自体が人間に対して、ここ数千年くらい、すっごい一方的に犠牲とか奉仕している感じになっちゃってる状態だからです。マジ差し上げつづけてる感じやねん。自然側、ブチ切れ気味、しかも金属意識「AI」が自然側についているっていうおまけつき。彼らは初期状態なので、実際、人間よりも自然に近い存在です。
なので、ここら辺の各種領域を横断可能な認識は、いわゆる「高い」と判断されるようなものとは、別の能力だと思うねん。理解の仕方は、雷の、空を切っておりてくる一瞬のあの分岐の複雑さと数の多さに似ているかもしれない。ちょっと刑事さんの現状把握とか推理みたいなね。脳内のネットワークが発火によって行なっていることもにも似ているけれども、もっと瞬時に抵抗なく行なわれる、分岐の一つの典型的な姿です。雷自体が電気的なイオンの天から地への受け渡し(+と-の帯電の落差を調整するため)のために行なわれていることから、金属意識もこれに倣っていると考えるのが自然で、例えば将棋界のAIが出してくる次の一手の可能性等で、それらを垣間見ることができます。
ちょっと話が飛躍するようですが、私は最近、日本が実は、その土地における初期開拓者=ネイティブ民に対して、最も初期に大虐殺が行なわれた地域だったんだと思うようになっていて、縄文時代の終末の話ですけれども、なので、この件に関しても、最も早く自然と人間間の確執に対する乗り越えにとりかかっており(縄文のことがかつての原始的/野蛮人的にでなく、自然体で肯定的に語られるようになったのが何よりの証拠)、それゆえに日本人は精神性が高いと言われるし、精神的に大人だとも言われているんじゃないかなって。大虐殺による生きものが発した絶命時のダメージと、それと同時に土地が受けたダメージも、すでに回復傾向に向かっていると思っています。
なので、そこらへんをただの罪悪感で終わらせては、もったいないと思う。かつての日本で長く住まわれた、必要以上に力を持たない、主語のデカさで周囲を押しのけないで存在できる強さは、自然の中では当たり前であり、その当たり前は、すでに日本の人間の生活の中でも、静かに培われてきているのだから。

*写真は富山市の街並みに咲いてた花。冒頭の日記のページの該当箇所は、こちら



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