dear me
【dear 日本】vol.3
on my ground





2026.7.26

【ウェブ時代の物語分岐が影響するもの】①
~「みんなが主人公になれる」は本当か~





BGM:「Dissidia Final Fantasy Extra OST - FFXI - Awakening」

*インターネット上の表示媒体(メディア)としての「ウェブ」という存在について、考える機会が増えている。ここで言っている「ウェブ」とはデジタル画面という意味であって、テレビ等の電波受信系のブラウン管及び液晶画面上の表現、その複製データについては該当しない。インターネットに接続した状態で閲覧/発信できるタイプの、パソコンや各デバイス上で表現されているもののことを言っている。
*こうした認識や考察が可能になったのは、単にウェブ上の表現が、共有媒体としての経過を積み重ねてきた結果かもしれないが、最近は特に、いわゆる物質空間が主体の3次元(視覚優位)と、見えない領域を主体とする5次元(聴覚優位)の間にあるものとしての意味、つまり4次元(時空の中でも時間の割合が大きい=ドラえもんの引き出しタイムマシンや4次元ポケット等参照)としての役割が大きく、5次元を中心に、これまで見えていなかった領域における環境理解を含めて、これらを安全に可視化するための手がかりをたくさんくれていると感じる。
*この項目では特に、日本において秀作の多い、ウェブによる仮想空間を住居とした制作物(主に3Dを含むアニメーション表現)を利用した、コンピュータゲーム上のシナリオ設計や主人公設定について気になっているところを、スピリチュアル的な流行を視野に入れて、採り上げてみる。日本における物語理解の最前線を担う存在である。
*何か、未来の出来事を想定する際に、直観による裁定以外は、可能性の分岐が存在する、というのは一般的な感覚かと思う。何某かの認識や理解においても、このような可能性の分岐は存在するが、その想定が現実環境に最も影響を及ぼすとしたら、まだ起こっていないことだろう。
*例えば、ビジネスの世界では、この分岐がよりリアルに、フィードバックの要素に関連しているだろうが、この分岐を、可能性数を含めてより鮮明に理解したらいいかというと、そうでもない、という感覚も、特にまさにビジネスにおいてはあるのではないだろうか。
*つまり、何が現実化したらいわゆる「うまくいったという感覚=成功」が訪れるのかという点において、可能性の綿密な抽出は、必ずしも全面的にこれを助けるものではないのではないか、という想定をしている。
*目の前に可能性が空間状に広がっているとして、可能性の抽出は、「これでもなく」「これでもなく」「これ」、という姿となり、それは最終的に現実化すべき「これ」の領域を、否定されるべき可能性=条件を可視化すればするほど、狭めてはいないだろうか。
*冒頭の話題に戻って、ゲーム設計では、コンピュータ言語を取り扱うので、この分岐に関する記述が、綿密に構文として並列される必要がある。シナリオ分岐が肝となっているゲームでなければ、エンディングにまで導かれる設定=メインのシナリオ以外の些末な分岐は記述上のものでしかないかもしれないが、現実にはこれらは可能性の範囲内として可視化され、相対的に未来への影響要素として働いてしまう。現実の延長上にある未来というのは、ゲームのエンディングのように堅固なものではないからだ。
*同時にこの分岐は、「成功」「失敗」「よい失敗」「ダメな成功」のような単純なジャッジを受け付けないところにある。起こる物事へのそれほど明快でオールラウンダーなジャッジなど、本来は存在しない、現在に続く未来は、出来事としてはそんなに明快に分離してはいないからだ。しかし、エンディングが(複数であれ)決定しているタイプのゲームでは、この明確な分離がありうる。物語がパッケージングされたゲームにおいては、常にエンディングからの逆照射によって、ゲーム体験者のその時点での現実がジャッジを認識され、そのことが「自分がうまくいっている」指標になるからだと思われる。
*たまにスピリチュアル界隈で、「時間は本当は未来から過去に向かって流れている」という理解が示されることがあるが、これはある種のゲーム脳による認識ではないかと感じる。他者から、タイムラグを通じて、自分に何かが届けられる場合、この「未来から」及び時間感覚に落差があるという感覚が出現することはありうるが(その件に対する他者との答え合わせ=集合場所が未来だからだろう)、現実には何か「すべての人において共通認識としての」決定した未来が存在しているわけではない以上、この、「前から時間がやってくる」感覚というのには、違和感を覚える。
*この起こるべきエンディングがすでに決定している感覚、「未来→現在」の時間感覚を現実化しようとしたら、未来に莫大な影響を及ぼす天変地異や社会現象でも設定しないかぎり、私の感覚では、辻褄が合わない。
*天変地異等の異常な予言が、世間でむしろ肯定的に拡散されてまかり通ってしまうのも、現実的には悲惨であってもすべての人が共通認識できる類の安定したエンディングからの逆照射によって、今の自分の感覚を正当化したいという欲求が潜んでいるからではないかと勘繰ってしまう。これだと、先に強烈な未来=エンディングを設定して、その逆照射からルートを想定してそちらに向かって走っていった方が、正しいと感じられる道のりになる。むしろ、その未来における通過点としてのエンディングが、現象として規模が大きく派手であればあるほど、その傾向が強まるのではないか。
*誰にとっても明快でない時代の、ある種のカタルシス解消の動きではあるのだが、未来予想におけるこうした傾向には、注意が必要だと思う。誰も望んでいないような未来の可能性を、どんどん太らせてしまわないように。とある可能性について、それを肯定的にであれ否定的にであれ、思う人がいればいるほど、現実化する確率が上がるのだというようなことも。
*書籍や映画、ゲームを観終わったあとの爽快感の中に、何某かのルートを正しく完走し終わった(どんなに迷いが存在するルートでも、そもそもそういうふうに物語が設定されているのだから当たり前なのだが)という、本来の自分自身にとっては架空の、あくまでシミュレーションによる快感が体験されているのだということを、忘れない方がいいのではないだろうか。フィクションによる体験が最高の人生体験だと感じる状態は、何だか生きる意味が半減するようで切ない。
*巷にあふれる、施設の体験レポや作品等に対する解説動画は、これらの架空の物語体験を自分視点で読み解こうとする、この読み解き自体を自身の知識や体験、表現としようとする、フィクションによる経験受容が一歩進化したような姿なのだろう。フィクションの制作側にいる人たちが、制作に携わることそれ自体を、表現活動と同時に自分の体験受容としているのと同じように。
*次回で、サブタイトルに入れた、ゲームでもう一つ気になっている主人公問題、そこから派生するパラレルワールド問題に話を移す。