dear me
【2026 如月】
きさらぎ





2026.2.25


BGM:「アポリア」ヨルシカ/「Same Blue」Official髭男dism

いきなり、北陸のお部屋に帰れる!と思って、本当にそのままの勢いでやってきて(昨日は家を出たのが遅かったので関東に宿泊)、たまっていたお役所関係の手続きをすませて、大家さんご夫妻とお話しして、部屋に入って寛いでいて寝ようとしたら、前の人が置いていった折り畳みのベッドが、以前もそうだったのだが、どうしても痒い笑。上に敷布団もシーツも敷いているし、どこがどうやって痒くなるのか分からないのだが、今回は痒みで座っていることすら難しかったので、とっさに以前に滞在させてもらっていた宿泊施設に来ている。
この数年で、どうも脳内的に近くにいるのだけれども誰だか分からなかった人たちが、少しずつ分かってきている。ほとんどが過去生で大事だった人たちだ。なのでそれがとても嬉しい。実際に会えるかどうか、会った方がいいかどうかとは別に。
と同時に、どうしても、どうしても、私としては、どうしても、なぎ倒してほしくないものをなぎ倒す人がいる、ということも認めざるを得ないところまで来ている。
それでも頑張って一緒にいる、と思ってきたけれど、自分がようやく生きる方に本当に舵を切って、至らなければならない体感や感覚があるのなら(「身体がそこにあるだけで、個人情報によるバイアスは一切加えずに、生存権が成立しているという感覚を得なさい」という奴が来てる。とてもとても分かる。でもムズイ)、それに集中して生きていていい人と一緒にいる方を選ぶべきなのだと思った。永く永く模索してきたことだったから、それを諦めるというのはとても残念だ。また、無理難題のような新たな課題(赤ん坊と土地の関係性の問題も提示されている)にも、つらくて心がちぎれそうだ。
そのつらさを払うように、人との関係が展開していく。多分、それでいいのだ。久しぶりにこの見通しのいい街の風景と、遠くにそびえる山の風景とを、安堵の気持ちで眺めながら。







2026.2.24


BGM:「Earth Beyond Silence 地球から降ってくる音」Chill Café Soundspace/「今日という日を」Uru

昨日は、36年ぶりに、ということは1990年以来、土星と海王星がコンジャンクション(度数一致)をみせた。
1990年は、私が大学生だった頃で、生まれて初めてまともな他者との恋愛関係に入ったら、またもどうも幸福が身体に定着できずにハレーションのようなものを起こし、生活自体が危うくなったので、近所のどでかい企業の自社ビル地下でレストラン業を展開していた企業で募集のあった(地元専用のバイト情報に載ってた)ウェイトレスのバイトを始めた頃である。
なぜウェイトレスか。お盆にちゃんと物を載せて(特に飲料)ちゃんと運べたら、精神的にも身体的にも、水平の均衡がとれていると思っていい、という理由からである。
ウェイトレスのバイト、人生初。当時は他のバイトもしていたし(中学時代に通っていた私塾の事務職と通信添削専門の塾で配布されていた広報誌の編集業務)、それ以上に負荷をかけるのはそれこそどうなのかと思われる時期だったけれども、精神的不均衡ほどリスクの高いことはない。
当時も、確か、こんなお堅い言葉で、いろんなことを考え、メモしていたと思う。言語、日本語における「人称」と各対象との距離感の問題、何かが渡される、伝達される、表現される、各々における流通の問題、衝突を避けるために設定されうるシンプルとは何か、etc.
そういったことを特に誰かと話し合ったことはない。誰かと話し合いたいと思ったこともない。あくまで自分の中で、自分を整えるために考えることだと思っていた。
そんなだったから、恋愛にゃんにゃん(『夕焼けにゃんにゃん』の当時だな、多分、この言葉が出てくるってことは。観てなかったけど笑)している自分と、まさに精神的均衡がとれなかったのだ。
人格的に、落差がでかすぎる笑。
自分にかかる人間的/物質的な制限と、この世界への果てしなく自由な感応力と。その狭間で。
土星と海王星。
あのバイトではいろいろあったなぁ。ほんとに。中卒のプロの卓越した技術(身体への職業的な仕込みって、もしかして中学高校でやるといいんだよね?って)を目の当たりしたり、私の大学を受けて落ちた現場のボスだった男子たちにいびられそうになったけれども(その気持ちが分かるとはいえ気にせずにぶっちぎってたせいか?)なんとかなったり笑、彼らについてバイトに来てた短大の美女たちの人生と作業の効率性に舌を巻いたり。とてもいい現場だった。
精神の均衡は、お盆に乗せた6杯ものビールを入れたグラスを運ぶ手のひらと、その方々のおかげで、無事に乗り切った。そのせいなのか何なのか、2カ月で失恋したけど笑。

てなわけで、36年経った。
今頃、当時のその彼は、なかなか自身内外にとって手強いプロフィールを持たざるを得なかった人だったと分かったり、だからといって当時の私たちにはどうにもならなかっただろうし、今になっても全くもってそうなのでどうにかしようとは全く思わないんだが笑、とりあえずみんな年をとった。

それで、上記の土星と海王星のコンジャンクションに対して引いてみたカード。
「時期読みをやってみて」って、多分私と結婚しているらしい(この曖昧な認識で進みつづけてる自分が意外と好き)彼に言われて、それで、そのときは巫女的資質に由来するらしい諸処の事情からできないと思ったんだが、翌日だったか、おそらくこの提案をもらったせいなのだろう、もう一段階、自分というものが戻ってきて(単なるリハビリのためにだけ生きるのではなく、自分を本当に生きる方へ舵を切ることができた、まさかの出来事だった)、時期読みというのはあくまで「誰か」が見るしかないものなんだから、私が見たっていいんだって思えて、自分のホロスコープに重ねる状態でトランジットとして出してみたら、やっと楽になって、いつものようにできた。これって、自分にはちゃんと理由があるんだけれども、一般的には変な苦しみ方なんだろうな。
時期読みについては、別の場所に。多分、「あなたの。」のyanのところに。



で、「制限」としての土星、「脳内自由」としての海王星(海王星は太陽系において、社会天体として金星の倍音に当たる位置にある惑星なので、愛や性の自由やそれへの対抗勢力との厄介な関係性に、葛藤の質的にちょっと似ているのだ。面倒くさい)のこと。
最初に制限として、ぴょこーんと飛び出してきたのが「ピラミッドの力」(日本の神託カード)。これが太陽信仰のめっちゃ面倒な限界最高到達地点だと認識しているんだけれども。
そして肝心の土星のカードは、「源」(日本の神託カード)。海王星を示すカードは「速秋津比売神」(日本神界と和草カード)。
これの意味というのが、不思議なことを言ってて、土星と海王星、それぞれのイメージを逆にしてほしいってことで。
土星って制限や教えの星で、割と直線的に誰かを抑えたりジャッジしているイメージがあるんだけれども、それをこのぐるぐるってので考えてって。この「源」のカードって、出したものが返ってくるというか、自分が相手の制限としてやることというのは、相手を一緒に巻き込み、自分も巻き込まれ、このような一緒のぐるぐる螺旋で巻き込まれて行くところまで行けば巻き戻されていくという感じらしい。
それで、海王星の方。このカードに出ている速秋津比売っていうのは、瀬織津姫を支える禊の三神(私は割とこの構造を、ひな人形のお雛様と三人官女のようだと思っている)の一人だ。海王星は、魚座のように脳内ぐちゃぐちゃどうあってもいいのヨ的な混沌の星と言われているが、そういう「脳内自由」の中でも、まっすぐにその混沌を突き通し、そのあるべき自由(だって混沌ってどう考えても不安定で不自由だし)をまっすぐに見通すような流れが起こってくるので、そのように受け取れるものはそう受け取ってほしいということ。
同時に、このカードのコメントにある「流れに乗る」ということを、表面上だけのものにしない、最も乗るのに美味しい流れというのは、流れの表面ではなく、もう少し下位のあたりにあるんだということ、そこに乗れれば、ただ川面を流れていくだけでなく、流れの本質に沿った実(じつ)がついてくる、というようなことを言っているらしい。最近、こういう禅問答みたいのが多くて、参る笑。
また、もう一枚サポートとして「月読命」(日本神界と和草カード)が出てきて、その土星と海王星の件で流れに乗るのに、プライベートは巻き込むな、ということらしい。制限やスピリチュアルなことって、往々にして恋愛やらトラウマやら、そういったプライベートに近いところに踏み込んでくる感覚があるが、本来は哲学と同様、自我と距離がとれるところにあっていいものだと個人的には思っている。

そういえば、空海の魂を持つ人(すでに故人)とまた久々に話したあとに(一時期、彼の隣を並んで歩いていた女性だったという記憶が私になぜかあるため)、密教というものについて、「密」は「秘密」の密ではなく、「親密」の密だったということ、その人にそのタイミングでしか訪れない真理そのものであって、イコンでも救世主でもなく、空のようなもの、求めるものは誰でも到達していく真理そのものを信仰対象にしているのだという感覚を、高野山の大学の方が話された内容から得た。

え?酔ってるんですか?ギネス2杯で?笑。
泊まったホテルの一階がギネス飲めるパブだったの!!







2026.2.18


BGM:「Faith」伊藤由奈

このHP内では唐突に思えると思うのだが、昨年の10月28日以来、厳密にはその前日に拝見した動画以来、日本を代表するゲーム?であるところの「将棋」とのご縁が発生していて、しかし、自分への影響力、特に巫女的な資質との連動性があまりに大きくて、全然ここに言語化できてこなかった。しかしその理由が、将棋における棋士の方々の対局中の集中力がおそらくご神事的なものに近いゆえの、私の今の(見えない領域の)仕事への影響の大きさだけでなく、自分の過去生でのトラウマ、女性と仕事という現代でも二者択一を迫られがちなこの板挟みの末に社会的外部への脳内回路が途切れ、毎日ひたすら一人で将棋と生活だけをしていた過去生と深くつながっているからだということが分かった。
ここに何某かの解決が起こるのかは分からない。今世では将棋自体とは、小学生のときにポータブルなやつをいじっていただけで、ほとんど縁が発生してこなかったから。
「アンフェア」。この過去生のときの自分にこそ、この言葉をかけてあげたい。
それで、今日のBGMも昨日と同じ曲。



昨日、2月17日は、2026年の旧正月だったらしい。
日本のお正月が1月1日の元旦になったこと、つまり日本の暦が太陰暦からグレゴリオ暦になったのは明治のこと。完全に西洋志向だったからだと思っていたが、どちらかというと中国(及びアジア)の慣習からの脱却が本旨であったと分かる。
ってことは、あれからだいぶ経って、両者の長所も欠点も理解できたと思うので、ここいらで日本らしい暦の算出、及び命占(誕生日等、過去のある時点に対する運勢の読み方)のための解法を探してもいいのかもしれないと思う。
命占で著名なのは、西洋占星術(ホロスコープ)や四柱推命、算命学、九星気学、数秘などだが、ホロスコープのジオセントリック(地球中心の算出の仕方)が限界を迎えている。なぜ限界かというと、そもそも太陽系がジオセントリックじゃないからであり、太陽系の他の惑星からの地球への影響を率直に捉えるのにズレが生じているからだ。幾多の鑑定結果の積み上げにより、ジオセントリックは、太陽系に対してまだ理解が正確ではなかった頃の、人間と太陽系の間での理解にまだ課題の多い状態が、現代の人間の人生の課題に演繹されて映し出されている。なので、人生における課題を見るのには適しているが、太陽系内の惑星たちから地球への影響を素直に見るのにはもう適していないのであり、だからこそ限界だと言っている。
ジオセントリックに対して、太陽を中心としてホロスコープを作成するヘリオセントリックという方法があり、すでにトランジット(今の時点での運勢を読むための方式)は、ヘリオでも影響が見てとれるレベルに達していると思う。もちろん、ジオとはポイントとなる時期がずれているので、数十年は両者併用でいくことになるかもしれない。当然、誕生日等による人格ほど深く見るのには、まだ各人のホロスコープと結果とのフィードバックによる意味の抽出例が少ないということと、人間はまだ、惑星からの率直な影響よりも人生の課題の方を重要視するのかもしれず、だとしたらこれもまた、併用して試していく方が現実的で実質的かもしれない。
西洋占星術なら、ホロスコープをさらに度数まで分け入って、サビアンシンボルを利用した各惑星の性格付けを加味すると、結構いい感じに(ジオセントリックなら課題が)分かりやすいように感じる。
四柱推命、算命学、九星気学は、どれも中国の暦を利用/加工したバリエーションによる命占だと認識している。こちらは結構、業が深い内容が出てくるなぁという印象なので、あんまり嬉しくないのだが、これも課題を把握したい人、課題をこなす人生を暮らしたい人にとっては、いい感じなのかもしれない(もちろん半分嫌味だ)。なんといっても、算命学だと、私は人生の中盤から以降ほとんどを、死ぬ直前の老人か生まれる前の赤ん坊として、つまりこの世にいない状態で暮らさなくてはならないってことらしく、この人生を見るとそれはそれで真実に近いのかもしれないが笑、全然嬉しくない。
そのくらいなら、東西の暦がほぼ関係ない数秘の方がまだ信じられる。
一つ、気になっているのが、「十二縁起」というやつだ。仏教の基本的な考え方の一つなのだが、その12の区分を十二支に当てはめることができ、これが実は、やってみると西洋占星術の12サイン(いわゆる12星座)のサイクルとも、絶妙に呼応している。玄奘三蔵も広報に関わっている教えなので、『西遊記』の登場人物として日本にも親しみがあるし、命占に関しては、ここをもう少し掘り下げたら面白そうだとも思っている。
この十二縁起で最も気に入っているのが、無知(無明、子)からのスタートであり、いわゆる社会的な主体が発生するのは酉/山羊座対応の「有」からだというところだ。人間には、一人前の人間として社会に接続する前に、身体的にも知識的にも育てておいた方がよい側面がたくさんあり、その時点で社会を前提にオープンマインドで曝される必要はないということ、閉じられた安全安心な状態、家庭内やコミュニティ内で育てた方がよいような、人生の素地といえるようなものもたくさんあるのだということ、それがごく自然に表現されていると感じた。
どこか他所の文明文化にすり寄らなくても自然に理解できる命占、自然と自分の人生の意味傾向を確認できるものがあったらいいのにと、単なるそういう欲求のもとに。







2026.2.17


BGM:「Faith」伊藤由奈

人が何某かの行動するというとき、どのような理由で行なうのだろうと思うことが多くなった。
お金がないならお金を稼ぐ方法を探せと言ったり。お金について考えているとお金だけの豊かさじゃなくてねと言ったり。よくも他人に平気で指図ができるものだ。この人たちにとって、こういった他人への指図は、おそらく自分の行動の範疇じゃないんだろう。仕事なら何をやってもいいと思うタイプ。自分じゃなくてもできることだし、ということは自分がやるとしてもたいした責任がないと考える。自分は安全な蚊帳の外にいる。あくまで相手が行動の基準になっているので、自分は常に、相手次第で振り回されることに対する正当性を持った嫌悪表現と引き換えに相手には見えにくいタイプの加害者になっているか、そのような加害を引き受けたという理由において、同時に見事な被害者になっている。永遠に相手と同等にも対等にもなりえないのに、引き受けた役目から相手に指図をするという、心理経済的に過剰なプラスが転じてマイナス極まりない状態で。それでお金もらえていいね。
このような状況に比して、金銭授受が発生しなくても、自分がやるしかないこと、というのがたまにある。

父が死んで、四半世紀経った。
父が死んでいた部屋では、完全なるゴミ屋敷だったばかりでなく、死後ひと夏超えて半年後ということで、夥しいウジ虫の成虫の死骸が、アップライトのピアノの鍵盤の隙間にすら詰まっていた。

「アンフェアなのは誰か」。
そういうセリフが、昔、ある刑事もののドラマで流れていた。そのたびに、この部屋の光景と、父が職場に残した膨大なゴミが数百箱の段ボールに詰められた山岳部の部室小屋の風景とを思い出していた。
「アンフェア」。
何が、何に対して?

何年経っても、その答えは出なかった。その二つの部屋の光景は、あまりにもどこもかしこもどの角度からでもアンフェアのようで、まるで無数のアンフェアがキラキラ回る万華鏡みたいだったのだ。
この件に対して、誰かフェアな立場の人がいないのであれば、アンフェアだと言い切れるポジション自体も成立しない。
父の娘である私には、この立場しかとることができないし、それでいいのだと。
父も、たとえ金銭授受がなくとも、自分がやらなければならないことがあった。その件について、誰も父の代わりになれる人はいなかった。
父が悩み迷っていたことへの、パズルのピースが、それと分かる時代が来て初めて、ようやくはまったようだと分かったとき(それは私にとってのパズルのピースではなく、あくまで父の)、この件はもう誰のことも追及/追究する必要がない、と思った。
それでも、父のゴールテープが無事に切られたからと言って、それぞれの立場でのアンフェアが解決されたかといえば、そうではないだろう。そしてその解決に関して、私が関与するのがいいことばかりではないということも分かっている。
だから、父の件に関しては、このまま流されていこう。

それと入れ替わるように、自分のことがフォーカスされて、父の死に関わる人たちの多くが、私のことではとても心強い味方である、という印象がある。たとえ一見、敵対するポジションにいたとしても。
普通の人では乗り越えられそうもないことを乗り越えてきた人たちは、父と同様、ご自身の能力と資質とに苦しめられており、それはもしかすると私も同様なのだ。

自分を特別だと思うことはその人を救うときもあるが、周囲の受け止めによっては過信の刻印を押されて不利に陥ることもある。そのときに、自分が孤独で極端な存在だと思わないこと、極端な行動に出ないことが、自らを救う。どうしようもないことは、極端な行動に出てもどうしようもなくなることは残念ながらない。諦めがよすぎるかもしれないが、そういうことでエネルギーを無駄に消費したくないのだ。そのように思う人物だからこそ、もし遠くにいても、この諦念が何某かの写し鏡くらいにはなって、どこかの緊張が緩むかもしれない。

父や私を肴に、自分の不当に関する感情処理等を行なってきた人、父の死にまつわる誰かを否定しつづけてきた人もいるかもしれないが、もうその地位はおろしてもらって、ご自分の人生を。
新たな人生において、私が先をご一緒する方もいるかもしれないが、そのルートへの接続はお互いの了承のもとに。

長きにわたって、お世話になりました。







2026.2.16


BGM:「Breeze(feat.シャノン・SHANNON、Riemann)」Pretty Patterns

さて。再びお金のお話。
昔から、株というものが不思議な存在なのだが、古く奈良時代頃だったか、日本の最古の株式会社は、宮大工さんのところだったと聞いたことがある。これだと、株が募られる意味がよく分かるというか、基本、お寺や神社を修繕するために使われるに決まっていて、そのためのお金集めとなると、今で言うクラウドファンディングの方が、イメージが近いんじゃないかとか感じる。要するに、使い途がかなり決まっているところでの、お金集めだったと考えられる。
私にとっての株というのは、具体的な企業に個人の(私が立場上、個人でしかないからだが)お金を出すことで、その企業の業務が円滑に進むようにする、そういう理由でお金が集められているのだろうと想像しているのだが、企業となると、一応、前述のようにかなり領域が確定している業務内容の企業もあるけれども、そうでない企業、広く業態を展開している企業もあって、それだと、自分が預けたお金が必ずしも思うように使われていない、もしくは使われていないように感じる、ということが結構出てくるのではないかなぁと思うのだが、どうなんだろうか。株式総会とかで揉めているのは、あるいは総会屋のような、揉め事を設定したうえで乗り込んでくる人がいるのは、大体においてそういうことが理由なのではないかと感じたりもしていた。
もちろん、応援している企業というよりも売れ筋の株を買う人が多いのかもしれないが、その場合、その業務が本当に進展していいという判断は、社会のどこで成されているのだろう。社会の空気のようなものがそれをどうにかしてくれていると思ったら、大間違いのような気もするのだが。情報屋の出番をこんなところで作りたくない。企業イメージを強迫観念的によくしようとしている印象を一時期受けていたが、こういうことの影響はなかったのだろうか。
ここでちょっと、「企業」と「個人」の違いについて考えてみる。
最近、国の領土を守ろうとする傾向がようやく出てきているが、反対に、他の国に日本は同じことをしてはいないのかということも考える。アジア地域には、ずいぶん日本企業の工場やら何やらでだいぶ土地を購入している気がするのだが、そういったビジネス関連なら現地に雇用を創生するという交換条件でOKになっている、ということなのだろうか。そこではフェアトレードの状況がどこまで成立しているのだろう。自分の領域が守られることを生命維持の前提にするとしても、まず先に他を侵食していないのかについて、考えてから交渉する方がいいんじゃないかと思わないでもない。またここで、今、日本の土地を買っているのが「個人」だとして、上記の「企業」の行為とは絶妙にはすかいになっている、という点も意外に大きな点のように思う。
私自身は、実は昨今流行りの個人投資家というものには反対の立場で、これは個人の権利を育てない、という意味ではなくて、企業が業態を運営するのに使用しているお金というのは、様々な運営の行方と可能性を保持するために不確定な要素を含めていて(これは未来が完全に決定していない以上、必然であり業務を守るための態度でもあると思う)、個人が持つような類のお金、つまりその法定通貨(日本なら「円」)が国内のどんな場所でも、自身が国内で生活するための必要なものと交換可能であると信じられる=確定的であった方がいいお金とは、別種のものだと思っているからだ。
そこに個人が報酬として、上記のような確実性あるお金を見込んで投資をしようとすると、企業にとっては、応援されているというよりは、ある種の危険分子のように感じるというようなことはないだろうか。一方、企業内で、社員が株を保持するというのは私は逆に賛成で、運命共同体としての意味合いでお金を預けるのに異論はない(銀行に預けるのとどちらがどうなのだろう?)。預けたお金は不確定な要素を常に含むかもしれないが、社員としては給料として、確実性のあるお金を受け取る。そのための権利は預けたお金が不確定でも維持されるし、企業もそこに義務を負うのになんら問題はないと思う。
傍から見ていると、株で社外に還元するよりも、社内の社員の手取りを増やす方が、よほど企業にとってはよいことのはずなのだが、そこで社外を気にかけなければならない理由が存在しているのだろうか。企業の人気や評価、特に未来に向けての業務への評価が、そんなに業態の諸々を左右するのだろうか。なんで?
一方、個人投資をする立場からすると、私もフリーで働いていて、厚生年金保険系の方と比べると、未来補償に関してだいぶ不利な状態だったので一応分かるのだが、そもそも当時はさすがに定期預金等の貯金を制限されることはなかったが、未来補償型のようなタイプでは、入れる保険も年金もほとんどなかった。これはなぜかというと、企業に入れる人は厚生年金保険系に自動的に加入するので他には必要ないからであり、家族になった者もこの恩恵に預かれる。
「企業に勤められる」ことは当時、強調気味に言うなら、ある種の人格保障のような意味合いを持っていたのだ。これは1990年代の話だが、企業の力が最も大きかった時代、ということも言えるだろう。私の次年度から就職氷河期だったので、企業内に入れずに「個人」でいるしかなかった人たちが大勢いることも、一応、承知している。それによって、そういう人たちが、当時権勢を誇っていた日本企業の恩恵に預かろうと思ったら、株式投資のような形で介入するしかなかったのではないか。
ただ、そうだとしても、私は個人投資には、冒頭に書いたような理由であまり賛成ではない。
企業には(これは専門領域を持っている何某かすべてに言えることのような気がするが)、それを専門的に追及する集中力と時間的猶予が必要で、ここに集中している間は、「鶴の恩返し」さながら、覗かない方がいいのだ。私がもし、専門領域を持つ企業の経営者だったら、株対応の業態、特に未来系の分野を専門領域とは別に作って、そこだけ株対応の情報として共有する、というようなことをするかもしれない。そうでないと、確実に成果を出したい専門領域のためのお金が、株のように動きのある、不確定要素を含んだお金、もしくは不確定要素そのもの自体に食われてしまうからだ。それは、専門領域の内部公開をしないという意味ではなく、専門領域で推し進めるべき行方(株のような金銭的な不確定要素とは別種の、けれどこちらも不確定要素で、専門家にしか分からない類の、けれど専門家だからこそ判断を下せる類の確信的な不確定要素だと言うべきかもしれない)を確定的に守りつづけるためにこそ、不確定要素に入り込まれないようにするための防御態勢だといえる。
しかも、何か株保持者との関係において(株式会社はすべからくこの関係が存在するはずだが)問題が起きたというとき、「企業」内のことなのに、問題になるのが「個人」のことだったりもして、そこも疑問に感じてきたことだ。
個人の行為というのは、企業で総合的にまとめとして言説されるような言い方で行なわれていることとは違って、常に確定的な状態で発生するので、目をつけられたら逃れようがない。どんな聖人君子でも逃れられない。これは決定事項で、だからこそ個人情報は、「公」に使用してはいけないのだ。企業のことには、個人の要素を使って突っ込むべきじゃない。
これも例えば個人投資家が関与すると、同じ「個人」の観点で、いくらでも介入の理由が作れてしまう。企業はこれをさせないために、同時に個人投資家やその立場を援護する者は、介入のための適切な情報を得ようとして、結果的に永遠の情報戦になる。最初から立場が対等でない=はすかいになっているので、どこまで行っても嚙み合わないはずだ。この対等ではないとは、不公平だという意味ではない。ここを勘違いしてはいけない。企業ではなく、不公平だと思いがちな個人の方が不利になってしまう考え方だから、しない方がいい。
日本企業の足を引っ張っているのが日本の個人(投資家)だということも、ある種の絶妙な策略に堕ちているかもしれないですよ?
ところで、株の予想を司っているであろう、未来を見込んだ不確定要素についてなのだけれど、開発中の何某かなど、まだ3次元として(情報でも正式な共有媒体にまとめられていないなど)成立していないものの場合、不意に思いついたのでざっくり比喩として自動車にたとえると、ハンドルだけが先に行っちゃってるとか(その自動車でどこに行けるのかが先に行っちゃってるイメージ)、その自動車から見えるはずの素敵な景色だけが先に行っちゃっているとか、そんなことにならないだろうか?
ようやく出来上がったその自動車を購入したら、ハンドルがついてないとか(だって先に行っちゃったし)、景色も、当時共有されていたほど素晴らしくなかったなぁとか、そういうがっかり感が訪れそうで嫌である。まるで、かつての雑誌に、素敵なモデルやお洋服と一緒に掲載されていた表参道みたいだ。私がそこの出身だから言うのだが、雑誌に掲載されているのが、どう考えても同じ街じゃない、でも具体的にはその場所で間違いない、素敵な景色だったりしたので笑。「なんか違う」という顔で歩かれても、「知るか!」だ。雑誌の、まるで占いのアゲ鑑定みたいに素敵に盛ってる情報は、マジで現実にがっかりする要素満載で、一周回ると、何のための誰のための情報だか、何が結果的に現実として=各々の自分自身のところで素敵になるための情報だかがよく分かんないのだ。
株の先行情報でも、そういう類の情報漏洩がありませんかね?まぁ関連情報屋さんは、そんな分かりやすい失態はしないと思うが笑。でも結果的に、そうなってないの?その先行情報が流れた業態は、本当に最終的に現実を先行情報よりもいい感じにしてくれているの?企業にとっても?投資家にとっても?一般民にとっても?もしくはいい感じの現実じゃなく「いい感じ」だけを成立させるために、情報と開発と噂が自転車操業になってるとか?
ただ数字関係の頭のいい奴らがその自転車操業を高度にしていった結果が今の経済に思える。資本主義でも民主主義なんでもないわ。情報管理主義?情報流転主義?情報バケツリレー主義?リアルタイム悪用主義?
数字はお金じゃないよ?政治情報でもないよ?今やりとりされているのは、ただの「噂」レベル、野次馬レベル、ギャンブルレベル。それを流行作ってるとか、中身伴ってないくせに、ちゃんちゃらおかしいんだよ。現実化できないお金ばっかり増やしやがって。そんなんで仮想通貨とか手出すなよ、世界的なお金の実験の価値が下がるわ。
ってことで、「障害者死ね」「ただ飯喰らい」と言われてきた(思われてきた)過去数十年に考えてきたことで、そちらの暴言に応答してみる。あー、すっきりした笑。
こういう数字頼みの奴らが個人の確定要素を決めたり左右してたりすると、そもそも現実と乖離した数字にまみれてて不確定要素の塊なので、周囲にいる普通の人の確定要素もどんどん希薄になってく。数字や情報に抽出できる部分だけが確定要素になって、それに現実が首を絞められてく。偽の表参道に、現実の表参道が、首を絞められていく。私が体験していたのは、まさにそういう感じだ。
識字率の高い、教育レベルが高い【と言われる】日本だからこそ、陥りがちな悪循環だと思うのだが、どうだろうか。
くれぐれも、不確定要素の強い日本円の関連情報で、現実生活で確定的に使われてほしい日本円の首を絞めないようにしたいものだ。

*お金のことなので、同内容を【粒子と波動】の項目にも置いておきます。







2026.2.15


BGM:「Unity」LMYK

少し前に設定された、お金に関する「小さなゴール」第一弾をクリア。
なぜ今世で「私なんか」といったニュアンスが(特に20歳前頃から)ずっと自分にあった理由が、今受け取っているような、人や人以外からのメッセージを受信可能にする身体・精神を作るため、つまり個人的な自我をぎりぎりまで減らす必要があったためで、そうした過去生の経験から自動的に働いていた戒律のようなものだったと分かった。
そして、そのことがちゃんと分かったのは、機能させるべき日本人の役割が無事に伝えられて、果たされる方向へと舵を切った直後だった。だからこそ、自分がそのように働けるよう順応していたのだと言える。
つまり、個人としての私の云々みたいなことは、すべて横に置いて生きていたということだ。生活訓練のために実家を出ても、何をやりたいかとかどうしたいかとか誰といたいかと聞かれても全然イメージが湧かなかったのは(病み上がりだったので、できるだけよい状態で生きること、淡々と暮らすこと、という感覚が予定に入ってはいたが)、自我を限界まで減らしていたからだった。
メッセージを受け取るときは最低限、人間じゃないといけないし(人間に対して伝えられていることが圧倒的なので)、一応、エネルギーからの適切な翻訳が可能でないといけないので、言語能力的には自分を維持しているが、自分でいていいのはそこまでなのだ。その感覚が、現世よりもずっと、過去生の状況に近かったので、そこも過去生を思い出した理由の一つだったのだろう。
とはいえ、最近は、だんだん巫女的な資質をそれて、自分の分量=現代的な個人の自我を増やす方向性へは向かっていて、けれど、本当にはどうしたらいいのか何をやるべきなのかが分からないままで生きていた。
だから、周囲から勧められる常識的な、もしくはメンタル矯正のための「ああしたらこうしたら」みたいなことに全然適応できなかったのは、ある意味、当然だったんだと分かったら、少しほっとしたし、今後もこうした常識感覚に適応できそうにない、しなくていいという点では、社会性との反比例を示すことでもあるので、やや落ち込む感覚もある。
でもこの仕事と引き換えなのであれば、仕方がない。普通の生活を送っている人には、決して入ってこられない領域のことだから。それが常識において受け入れられなくても、今の時代にどうしても言語化しておかなくてはいけないことだったんだと、時間が経つにつれ、明確になっていくだろう。
だから、その「できなさ」において、自分を責めない、そこをどうにかしようと思わない。これは、過去生からするとだいぶしんどい決意だけれども、ここをどうしても転換しないと、むしろこの先へは進めない。
精神的な不調、もしくは周囲から精神的に不調だとみられる(断定される、無理やりそのように決め込まれる)こととのバランスで、自分を肯定的に捉えらない状況に追い込まれているとして、それすらも、より今後も適切なメッセージを受け取れる状態にしておくようにするには、自分を自分で、能力や技能を否定しない、自己否定による遠慮から自分を大切な人たちから引き離さない、自分を自分で見捨てない、過剰にダメな人間だと思わない必要がある。
そこだけはがんばれ自分。











2026.2.11


BGM:「今日という日を」Uru

国の財政の問題が、度々議論になる。
どの見直しも、どこそこの(複雑な計算式によって出てきた)額を減らすもしくは増やす、という感じに思える。
先日国会で通過した基礎控除に関する改訂は、収入から税等が引かれたのちに手元に残るお金を増やす、という方面の調整だった。これは国と収入のあった人との間だけの話なので、比較的、反映しやすい内容だったかと思う(一時期それさえも結論が長引く気配があって驚いたが、その理由として大きかったのは、野党が出した提案だったからなのだろうか?)。
また、この恩恵を受けるのは、まず税の申告をするぐらいに収入のある人だということ、そしてこのシステムに問題なく登録されている人、ということになる。つまり、国民の全員ではない。それでも、世代や立場ごとに異なる、収入に対する課税の感覚や、調整しやすいところがどこなのかを、国民で共有しておくことは、とても価値のあることだったと感じる。
自分の財政(「自分の手持ち」と感覚判断されている金額=「お財布の中身」とここでは言う)において、お財布の中身=手持ちを増やす、という感覚はもちろん、豊かさにおける基本感情のように思えるが、私のように収入のない身からすると(障害年金が一昨年、該当者から外れて切れた、一応めでたいことのはずであるがその後がね笑)、諸々考えたときに「手持ちを必要以上に減らさない」という感覚も割と役立ってくれるのではないかという予感がある。
この、「手持ちを必要以上に減らさない」というのは、稼ぐのと同様の効果が実はあるのでは、と言っているのである。

自分のその購買対象品に対する賞味期限もしくは使用期限を考慮したうえで、安売りされているときを狙って買うことや、企業等によるブランドマネーが昨今付与している、各種ポイント(消費に対する単純な%還元や、期間限定もの、対象限定もの、条件付き、ルーレットやくじなどの偶然性を用いたものや増額を目指してギャンブル性を施したものなど、付与の理由にもいろいろなものが実験検討されているようだ)や配布されるクーポンを賢く使用する(ただし乗せられるとかえって散財する)なども、かつての、企業・店舗による安売り投げ売りやセールス品などとあわせて、「手持ちを必要以上に減らさない」方法として定着してきているのではないかと思う。これらに加えて地域マネーも発生してきているが(これは店舗戦略のチェーン展開、つまり地域横断による融通が不能な、当該地の個店を守るためも大きいだろう)、これらは、いわゆる国以外の、様々な人的環境とのやりとりになり、消費者側の努力が必要な側面になる。
ただし、収入増加への尽力はもちろん、こうした努力も難儀な家庭が増えているのではないかと感じている。
そうなると最後に、国に支払っているものを減らしたい、という感覚になるのも当然かと思う(福利厚生が完備されている企業にお勤めの方々においては、厚生系の額面として企業に支払っている人も)。
この国に支払っているもの(企業を通じて最終的にであれ)として念頭に上がりやすいのが、①年金や保険等の社会保険料、②購買に際して発生する消費税、③条件付き医療費負担あたりかなぁと思うが、どうだろうか。

喫緊で、子孫に負担をかけないために未来の先取りを前提とした構造になっている社会保険料の問題がある。個人的に、かつての同居人との見解の相違を抱えても、自分で支払ってきていた年金をある程度まで頑張って支払いつづけていた結果、障害年金をもらえる基準をぎりぎりクリアしていたという経験がある。誰もが人生の予定を完全に自分だけでは(人に限らない、むしろ人に限らない)決められない以上、支払わないという選択が、稀にでも不利になる場合を無視するわけにはいかない仕組みだ。
ただ、この国民登録が完了している人なら誰もが(NHKの受信料みたいに)問答無用で支払うことになっている、いちばん手前に出てきている①の金額がいったいどの程度の計画性と信憑性を持っているのかについて、誰か確信をもって答えてくださる方はいるのだろうか?
何となく、①が射程に入れている期間=リターンが発生するまでの期間が長いからこそ、この額について考えるよりも先に、今自分の必須の消費行動に応じて発生してくる②とか③がどの程度、「手持ちを減らさない」ものになってくれるかを考えて、そのうえで各ケース(個々のケースですでに金額もリターンも異なってしまっているため)で算出する対応計算式を抽出して(そういえば、チームみらいの安野氏が、どこの金額の算出に対してだったか、計算式を法律に載せたらどうかと仰っていて、下手な言語説明よりも適切な表現になりうるかもと感心したのだった。なぜなら例えば一つの式やそのバリエーションだけで、代数においての条件の仕分けが盛り込めるからだ。確かに理系の人なら考えそう笑)、段階的に解除するならする、金額を調整するならする、というのが妥当な気がする。

そして年金や保険にどちらかというと(年齢的にも)関係しそうなのが、③の条件付き医療費負担かなぁと。
これがまた、国保が効いた医療費は(条件によって)〇割負担でいいという、よく訳の分からない構造になっているのだが、この仕組みが発生した理由と詳細な内容事由は、普通に分かりやすいものなのだろうか。医療にお金がかかるというのは、おそらくこれまでの時代には古今東西当然で、だからこそ医療従事者のお給料が異常に高額なのだと思うが、患者がいなければ治療も研究も成り立たない稼業で、患者だけが一方的に金を払っているという構造自体がよく分からない。
病気になりたい人は誰もいないという、いわゆる一般の「ほしい」類の消費とは真逆な精神状態で、さらに金を払わせられる=収入と引き換えられる予定の本人の労働が体力的精神的に危うい状態で経済を回させられるという二重苦。まるで病気になった人が悪いと言わんばかりだ。
病はほぼ、社会や生活における心理負担やしわ寄せが、身体や精神に発症している状態なので、別に罪とか罰じゃないし、そこに社会全体が適切に対応することで、病の原因自体が社会から根絶されていくこともある。医療者と患者が協力して、社会における「病」を、患者の身体を通して、医療というものを技術的/概念的にも修正しているといえるわけで、医療側だけが優位に立っていいものではないのだ。必要悪は存在する必要があるとか言っている人ほど、病気になるのはその人が悪いとか言ってそうで嫌だ。おんなじことだろ。
ってことで、巨額の医療費は、病院や薬局に入って一体その後、どちらへ?あ、どっかで有り余ってるので、今度は逆に患者に支払っていただける?それとも、患者の支払いになってても医療費控除申請すればむしろ儲かるんでっか?(私は精神医療で「自立支援」を申請していた関係で、精神系は全部ここに吸収されて医療費や薬代に充填されていたと思われる)まぁそんな分かりにくい医療費なるものを、再度見直しいただいて、特に〇割負担に関わるところなど、そこを簡略化する経緯まで、ドラマででもジャジャーンとやってくれると有り難い。

最後の②の消費税減税に関しては、生活に関する個人/家庭、ひいては関連企業の負担を少しでも軽くするために、是非やってみてほしい。というのは、手取りに関しては国民の所属証明が完了していないと各種緩和の恩恵を受けられないが、買うものの値段が下がればその恩恵は買い物するすべての人に効果を還元できるからで、国民すべての「手持ちを必要以上に減らさない」ことに貢献可能だと考えるからだ。
また、消費対象の中ですべての人がお世話になっているのが食料品のように思えるので、ここの税負担を減らして、食費全般において支払う金額自体を下げられたら、かなり楽になるのではないだろうか。
何が食料品に該当するのか否かで、いわゆる私たちが食料品を購入するような各種販売店/スーパー/コンビニ等の店舗だけでなく、生産する農家やすでにできた食事を提供する外食産業への影響を考える人がいたが、前者とも後者とも、いわゆる原材料に当たる品目、原材料に書かれるような基本的な品目を対象とし、ここにかかっている税を外してみるだけでいいのではないかと思う。
今のところ2年というお尻が決まっているようなので、実験的にこの変化で、消費者の購入時に起こるお手持ち減の軽減感覚だけでなく、生産/流通/加工/販売の各現場において(それも組み合わせ等でケースバイケースがあるかもしれない)どのような変化があるか、原材料調達における費用の軽減感覚やシステム等への作業負荷がどの程度かかるのか、価格設定時の感覚における変化を確認するのもいいのではないかなと。

2年前くらいから数カ月前に考えていて書こうとして書けなかったことをとりあえず言語化した。頑張ったね自分エライ何事も自分に分かりやすくするのがいちばん自分に分かりやすいので頑張る甲斐があるね(早口言葉じゃないです笑)。



以下、個人的な話。下の手書きにも書いた変化なのだけれども。
いよいよ現実の近くへ、固有名詞、個的認識ができる方々のあたりへ、しかも意外な方の近くにも、やってきている。
現実感に関しては、2000年以後、最もその感覚が強くなってきた。

1999年の1月に唐突に電報で届いた、父(2歳のときに母と離婚した実の父。私は実の父だと思ってきたが、実か義理かが不明なのかもしれない。母の再婚で名字の異なる義理の父もいた)の孤独死の通達から約四半世紀が経った。
遺品等への対処中に精神病にかかって、一般的な社会生活からも退いてきたが、その病が唐突に治った2019年(つまり1999年から20年後。ちなみに完全なミイラで発見された父の推定死亡時期は、司法解剖や現場の捜査から、発見の約半年前の2018年6月)、約5年ほど前から、父の弔いの仕事から完全に抜けるための道を模索していたのかなぁと、ようやく思い至れる感覚になってきた。
2000年には大学時代の親友もなくなり、病気が再発して社会復帰を完全にあきらめた2005年頃から、あまり動かせなかった二人の遺品。昨年末には、父の遺影を開けてみたら憑りついていたものがあったので、何回かのアプローチを経て解放。約2か月後の先日、やっと親友の(お母様に頼まれて開催した個展関連で、彼女の手によるものを頼りに主に自分が製作した)遺品も初めて本格的に整理した。父が生前、授業の教材として買いためた中から拾ってきていたものの処分等を決めたところ、また状況が進む。
父はごく限られた界隈でのことだろうが目立った人だったと思われ(最期の活動は、父の職場の定年時期を争う最高裁の裁判になった。この裁判では敗北したが、なぜか数年後に定年が延びている。父が亡くなったのはこの敗北の少し後と思われる)、父はどうやら私のことを離婚後も自分の娘として扱っていたようなので、父の死後、私に父を重ねて観ていた人もいたのではないかと、今は過去形にて思う。
父の死の謎も、私の中では、当初の疑念の状態から、はるかに納得のいく状況になった。誰かを責めたいわけではなく、父を責めたいわけでもなく、ただ、納得という点で、私なりに気のすむ状態になりたかった。父の死が知れた頃は、一体全体、何があったらこうなるのかというレベルだったので、あくまで自分比ということで。
とある場所に、コメントとして書いた言葉が、自分的にとても了解の行く言葉だったので(こういう言葉を書かせてくれる場所があることに感謝したい)、一部を引用する。
「別の方もコメントに書いておられたのでそういう時期なのかもしれませんが、私も20年以上経つ家族や親友の遺品を、先日やっともう1段階、整理しました。特に家族の死に、本格的に納得がいきはじめたのが、遺品を整理できた少し後からでした。長きにわたって沈黙と傾聴の領域にあった弔いの仕事が、いよいよ終わっていくんだなぁと。完全に、道なき道でした」
父の死に対して、自分は、ほぼ【沈黙】と【傾聴】以外、何もできなかったし、すべきでもないと思ってきた。その態度が自然と報われることがあるなど、考えもしなかった。でも、多分、それでよかったんだなと。とてもとても多くのことが絡み合っていたから。そしてそれがほどけることで、意外な事々が、緊張を和らげていっているから。
私の都合で早くに解決しようとしたからと言って、これらのことがうまく和らげられたとはあまり思えない。これぞ、人だけでなく状況に対しても、静かに確実に効いていた「時薬」、というやつなのだろうか。

ここからもう少し手順と時間がかかりそうだが、私を守るために咄嗟に伴侶として登録してくれた方にもサポートいただいて、父が死ぬ間際、最期に私を託した人(実は伴侶の彼を一時期養育していた人)と、家族として生きていくことになると思う。
父はそんなこと絶対に知らなかったと思うが、彼とは過去生から、なかなか手放しの状態では幸福になれず、近くで生きることもあきらめていた人のようだ。でも、昨今、生まれる前にいろいろな領域で約束をしてきてしまう人が多く、約束しないもしくは約束できない人ほど生きづらく、仕込まれた約束を成就させるための地球の見えない領域も、もう飽和状態になってしまっているらしい。
私があえて誰とも何の約束もなしで来ていたのは、そこを圧迫しないためも含めた幾つかの理由で、完全にネガティブなものではなかったと分かり、今世も相当に迷子状態ではあったけれども、地球をこれ以上苦しめなかったという点では安堵している。












2026.2.7


BGM:「ある鼓動」クラムボン

この曲、発表時から聴かせてもらっているのだけど。
昨今聴いているのはだいたいにおいて暗い曲が多いなかで。まだ、あむが現実化する(身体を持つ)って思っていた頃なのかな。
今は、あむはあむで自分で決めて今回はあのやり方で来ていて、気が済んだらどこかに生まれるかもしれないけども、「振動」について(神童ジャナイヨ笑/主に微細な振動について)の観察と見解が日々楽しそうなので、無理強いせずに。
昨日は、振動が治すのに効く(何へのだ??)みたいというようなことを嬉しそうに言っていた。本人がそれで何某か治ったのかも笑。



さて。世は選挙である。
選挙権が富山にあって、今回は投票したい人がいるので投票しにいこうと思ったが、移動が体調的に無理そうなので、ここに投票予定だった方の政策内容と、それに関して思っていることを記そうと思います。

①長いこと精神病薬を飲んできて、それによる作用や副作用が私の人生に与えた影響が絶大だということで(ちなみに日本で認可が下りたので服用していたが元々はアメリカ開発の薬)、【医薬品製造を国内自給のサプライチェーンを構築する】というご提言。祖母の代から医薬品とのお付き合いが長い身からすると、個人個人への適用もそうなのだが、けっこう民族ごとに効き目が違う(場合によっては毒にすらなる?これは体格等からの薬の吸収力といった遺伝的要因に加えて、身体に入れている土地の水や食が異なっていてそれとの相性からかもしれないし、要因はいろいろあると思う)ということがあるんじゃないかと感じていて。病で苦しんでいるのに、「毒にも薬にもなりうる」ものじゃ、怖くて飲めないね笑。「富山の薬売り」という言葉もあるくらい、薬に歴史の深い富山で、日本人が元々もっているきめ細やかな開発力のもと、そこら辺を模索していただくためにもぜひ推進してみてほしいことです。

②【国土について、国の土地を外国勢力から守る】というご提言。土地は誰のものか、ってことを病を抜けたあたり(2019年夏)から懸案事項として考えているのだけれども(富士山に怒られた)。基本、人が作ったものには価格を設定してよいし、対自然に関しても修復・整備・共生のためにはお金をかけてよいと思うのですが、「お金というのは人の間でしか回ってない」ものなので、土地関連については、建物については価格を(極端に言えばいくらでも)設定してよいと思うけれども、特に動かない土地(だから土地のこと不動産って言うんだよね?)に関して価格がある、しかも価値が上下動するというのは、なんだかその土地が何某かを可能にする領域に関しての諸々が、二重取りみたいになってると感じるのですが、どうなんでしょう。あの不動産バブルは、一体なぜ起きたの?泡のようにはじけてしまったのは、本当のところどこだったの?価格の天井を突破できない仮想通貨(これは逆に破綻しないように、数直線上の数値限界に応じて、適切に上限が抑えられている状態なのかもしれないと感じています。概念上無限と思われている数も、地球上では時空に合わせて歪みが出て、金銭換算も含めて、均等間隔の目盛りとしての役割には限界があると思う)に通じるような構造にも思えて。そのことをきちんと捉え直すためにも、いったん土地を動かしにくくする外国勢には撤退していただきたいし、街の価値が昨年?のニューヨークタイムスの評価で爆上がりした富山では、土地の売買については守勢が必要なのではと感じます。

③自衛隊について、その役割を「自衛」及びそのためのサーチと防備に徹底したうえで、第9条に対しても違憲ではないという判断がそろそろ必要かと思います。そうじゃないと、過剰防御のために防衛費が増大するばかり、防衛とは名ばかりの、海外からの武器購入を続けることになりませんか?武器を蓄えるってことは、それをいつか使う可能性があるということでは?(購入した武器ってバカでかそうなのがあったと思うけど、どこに置いてあるのかなぁ?)それとも、他の国に使わせないために平和への献身として高額な武器を収集/研究しているとか?殺人鬼として武器の原材料に使用されている金属の身にもなってほしい(らしいです)。現実的な国の自衛とは何なのか(それは日本に限りません)、実際に影日向で守ってくださっている方々についても、存在の公開非公開が人権に抵触しないようご配慮をお願いしたく。もちろん、本当にまさに「自衛のために」非公開が必要な情報やケースもあると思うのですが、そのための各種シェルターとして、日本では自衛隊が機能してくださらないかなぁと夢想しています。【改憲】

富山は元々、与党の勢力が強く、特に医薬品の領域では逆に変化が難しい地域なのかなぁと思ってきましたが、与党でこのようにご提言くださる方が出てきて、2023年から籍を置いている身には嬉しく。
そんなことで、日本各地で雪の警報も出ているようですが、どうぞお足もとに気をつけて、投票したい方が無事に投票を完了できますように。







2026.2.5


BGM:「【フリーBGM】澄んだ冬の朝に流したい、透明感のある音楽|作業用・朝の支度・ひとり時間」 Bloom melody

諸々、作業的な整理整頓。
下の表?に書いていないが、自分にやってきている諸々を、百科事典風にまとめたオラクルカードと解説本(2020年くらいから言ってる笑)の構想は、意外な発展性を含めて中身がどんどん充実していっているので、なんかある地点まで分量が?情報が?たまればまとめられるのかなぁと。
自分用の辞書みたいな感じで。方々繋がっているので、どっかとりあえず書いとくといいと思っている。










2026.2.3


BGM:「ドミノ」COLTEMONIKHA
固有名詞てか固有人名キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
え?こういうところから?笑



2月になりやんした。
本名を使うのがここ四半世紀(25年と書くよりズドンと来るな笑)くらいしんどかったんだけれど、なんかきっと、ここも、いつの間にか抜けていくのかもしれない。そんな予感が近づいてきた。

今世で、金銭授受への抵抗を代表に苦しんできた自他の乖離というのが、例えば哲学的な問題、学生時代から取り組んできたような「人称」や「境界領域」の問題というより、性格的な偏りや人格形成、あるいは単なる人間力の問題というよりも、割と現代に近い過去生で取り組んでいた研究(特に心理的にはたらく暴力/攻撃/侵略/闘争/勝敗として表現される力をどうやったら解放できるのか/どこで解放するのか)とプライベート間で迫られた究極の選択によるものだった、それによってほぼ後半の半生を、その研究行為と個人的な生活に絞って、他者にも社会にも自閉した状態に入ったまま死んで、それを今世に持ち越していたことが影響していたと分かって。
これに気がつく、思い出すのがこんなに大変だったのは、当時の痛みが邪魔をしていたせいなのだろう。究極の選択をした際の、そしてそれによって人生が壊れた際の自分を思い出したときの、堪えきれない嗚咽が、それを物語っていたような気がする。

それにしても、人生の多くをこんなに過去生の澱のようなものに絡めとられている事象なんて、一般的にあるんだろうかね。ただ、知らずにそうなっていて、なんでこんな苦しいのか分からん!って人は、意外にいるかもしれない。
なんか、神話の捉え直しが起きている今の日本自体がそんな感じ、なんなら地球自体がそんな感じかもしれないが。どっちかというと、個々人の人よりも、日本や地球のそれを捉え直した方が、個々人が早く楽になりそうな気もする。個々人の記憶とのフィードバックで進むのがいちばん良さそうだけど、それに向いている人ばっかじゃないし、つらすぎて思い出せずに、自分のことなのに周囲や他者に投影している人もいるので。

間違っちゃいけないのは、過去の事象が再来している場合と、自分を誰かに投影して経験している場合とでは、参照していい周囲への認識が違うこと。前者では「自分が体験したことが自分も周囲もそのまま」だし、後者では「誰かが自分に対して起こしていることがかつて自分が周囲に対してやったこと」なので、周囲が自分に対して真逆の役割をしているという点。
なので、安易にその事象が上記のどちらかであるというふうに、特に他者の事象に対しては決めない方がいいと思う。そうじゃないと、真逆のアドバイスになって、相手を極限まで苦しめてしまう。だって、前者に適応して経験している人に対して「あなたは後者だ」と言ってしまうってことは、被害者に対して「あなたは加害者だったんだよ、罪悪感から忘れているだけだ、思い出して償え」と言ってしまうようなことだから。これが個人的に、鏡の法則や他者や周囲への投影の法則を安易に適用したくない理由だ。
この差というのは、主に責任に対する意識の違いから起こってくるもので、責任感が強い人は、被害者になりやすい。被害者になったことすら悲劇のなんたらになっていないかとか、相手を自分が加害者にしたかもという過剰な罪悪感を抱いたとして、それを簡単に忘れたりできないし、周囲や他者に自分やその経験を投影(投影というよりむしろ転写とでも言うべきか?他者からの反面教師的な受け取り方に慣れていたり好きな人はこっちが効くのかも)したりはしない。それはそれで、相手を被害者にしてしまうことに、むしろ罪悪感を感じるからだ。

なぁんてことで、近々dear japanのページも更新予定です(テーマは「男性身体における女性性に託す未来」)。「あなたの。」のtoknowbodyのページも(テーマは「精神病薬による肥満とその理由考察」)きっと。