dear me
【2026 神無月】
かんなづき





2026.10.3



BGM:「Shape Of You」(藤井風)

*個人的に、今世は基本、無宗教で来ている。
*とはいえ、現代の日本である。食と同じくらい、宗教もごった煮状態であるので、接触のようなものというのは、なしではいられない。
*まずは幼稚園である。
*母が一年間、海外に音楽留学をすることになって、私は祖母と二人、家に残されて(父とは2歳のときに離婚済み)暮らすことになったのだが、一日中、祖母が私の面倒を見るのは無理なので、幼稚園である。
*(ちなみに保育園は、父が自分の勤め先の大学内に福利厚生の一環としてできたばかりのところへ、そういう方向性を推したかった父に何度か連れていかれたことがあるそうなのだが、遠いし、いきなりスパルタ教育になりそうだったようで母が反対して、そのまま終了している)
*近所には二つの対照的な幼稚園が存在した。一つは、キリスト教の教会付属の幼稚園。一つは、長野の善行寺さんの別院(尼僧が営んでいた)付属の幼稚園。後者は、尼僧の中に母の同級生がいたので、そちらに入ると周囲には思われていたらしいが、しつけがかなり厳しいので有名だったそうで、自分の周囲で起こることに敏感すぎる私が順応できない可能性をみて、母は教会の方の幼稚園に預けた。私を預けていく祖母が、水戸の実家ともども当時キリスト教にちかしかったせいもあるかもしれない。結局、小学校入学前の2年を通った。
*幼稚園では、クリスマスなどのそれ系のイベント以外は、特に宗教チックな指導を得た覚えはないが、教会の敷地の中にあるので、幼稚園のある日以外の、つまり週末には、大通り沿い(今はキラー通りと言う)にあった幼稚園の入口とは別の場所に入口があった礼拝堂にてミサがあって、幼稚園の園長さんだった牧師さんのお話を聞くと、聖書や賛美歌の一説が挿絵とともにカードになったものを一枚ずつもらえて、それを3枚1ページにはる横長の帳面もあって、そこに糊ではっつけてためていく、御朱印帳みたいなスタイルだった。
*当時のことを多く覚えているわけではないが、入口近くの横に揺れるタイプのブランコの隣の草むらによく飛んでいたシジミチョウが大好きになったのは、この幼稚園時代である。どこに飛んでいくか分からない飛び方を追いかけて、捕まえようとするのだが、あるとき、いざ捕まえてしまって、しばらくは手のひらの内側にパタパタ当たっていたのが、静かになったので恐る恐る手を開いたら、手のひらに銀の鱗粉がついていて(この銀色のふくふくが、シジミチョウを好きな理由の一つでもあった)、シジミチョウはもう息も絶え絶えで、そのまま死んでしまった。どんなに素敵で好きでその行方を追いかけたくても、こうやってはからずも捕まえて殺してしまうことがあるのだと、そういうものには近づかずにただそっと見ているのがいいのだと決めたのも、この頃である。
*上記の二つの幼稚園で、その後、イメージを比較したことがあって、キリスト教の、つまり私が通っていた幼稚園では、特に通った1年目は、クラスの全員で広がってまぁるく座ることが多く、お弁当もお話を聞くのも、この形だった。先生はその輪のうちのどこかにいて、そこからお話をしてくれた。うちの地域側ではなかったが、お金持ちの子どもも多く(車での送り迎えも)、いきなり友達付き合いが社交的な「真ん中」を持っているサロンっぽい感じになっていて、当然ながらというか、当時の私は恥ずかしがり屋でほとんど話さない子だったので、そこからは遠い場所にいつもいた。
*一方のお寺の幼稚園は、正座が基本で、前方に話す方がいて、それを教室のように聞くスタイルだったようだ。そこの出身の二人の子と小学校が一緒だったので、別々の時期に親しい友達だったことがあるのだが、片方の子が大事に伸ばしていた長髪をもう一人の子がいきなりハサミで切ってしまうという事件があったそうで(幼稚園生にしては行動力が大)、割と激しめなエピソードに慄いたことがある。
*教会でのミサが終わり、園長である牧師の先生にカードをもらうべく、列に並んでいて。いよいよ自分の番になったとき、先生が「今日のお話は面白かった?」と聞いてきたので、どう答えるか悩んだ挙句、「面白くなくはなかったけど、全部は分からなかった」というようなことを言ったと記憶している。それでまた、余計なことに「くみちゃんも質問していい?」と聞き(園長先生がまずは質問してきたからだと思う)、「いいよ」って言ってもらったので、多分前から言いたかったこと、「園長先生は本当はサンタクロースなのに、どうしてそんなにつまらなそうな顔をしているの?」という、今から考えると大胆な質問をした。その園長先生というのが、ものすごく体格のいい=ガタイのいい、四角い顔をしていて、割といつも苦虫をつぶしたような表情だったのだ。直接話したり笑ったりするときは、もちろん全然違うのだけど、だいたいにおいて、怒っているような怖い顔で、日本のサンタクロースは、いわゆる「ヨッホッホー」などこぞのヨーロッパのサンタさんとは違って、こうなのか、こうでいいのかと思ったのだ。先生は、大笑いして(その意味が幼稚園児には定かではなく、にわかに不安になるわたくし)、「そうだな、じゃあ、あんまりつまらなそうな顔はやめておこうかな」とかいった、非常に穏当な答えをくださった。
*「生きることについて、ただ機嫌が悪くなっているだけって考えてみたらどうかな」
*その先生から、つい数時間前にもたらされた言葉だ。「いつか私に聞いてくれたことから考えていたんだよね。この世の不幸だと感じられるもの、病気も、苦しみも、八つ当たりも、死んでしまうこともね」「あなたは、過去生からのそうして溜まった機嫌の悪さを、いま全部なおしているんだよ。だから直接、個人的な、身体に至る暴力でないなら、怒っていいし、ちゃんとかつての自分が否定すべきものは否定すること。それをやりきったら、また自分をやれるようになるから、今は、その機嫌の悪さをなおすこと、自分のためにそれをなおしてあげることだけ考えなさい」。
*相変わらずベースが怖い顔の日本のサンタクロースは、そんな素敵な箴言をくださった。
*これを書いているのは2026年だが、2000年に精神病だか巫女の修行だか見分けのつきにくい症状に突入する数年前にタイムスリップすると、ライフワークにするつもりだったあまりにもミニコミな文芸同人誌を作るべく、その時期も奮闘していた。前編集長が、家のポストに入ってきたからと言って、激安のコピー屋さんのチラシをくれた。当時、コンビニでは白黒コピーが10円、そのコピー屋さんでは6円。その号はページ数が少なかったので、印刷でなく両面コピーでいこうとしていたので、その料金は魅力的だった。
*そのコピー屋さんは、子どもたちのための勉強用の教科書を主に作っているとのことだった。その余力で外部のコピーも受付もやっているらしい。当日までの原稿のやりとりやお仕事の運びの、簡潔さと迅速さに感心して、またお願いしたいと思ったときに、対応に当たっていた方から、無言でジェスチャーすらなく、その意思を遮られたのが分かった。そして、とてもさりげない様子で、壁に貼られていた地図を見やりつつ、「割と余裕がなくて、ここの本拠地ももう閉じられるかもしれないんです、ここも、ここも」と指差されたその場所が、その数年前に都心で強烈なゲリラのような現象を起こした、とある著名な宗教の活動拠点だったことに気づいて、一瞬、息が止まりそうだった。
*子どもたちの勉強用の教科書を作っていることの意味も、コピーが安いことの理由も、意味が分かったような気がした。その宗教に属していることが様々な理由になって学校に行けない子どもたちが、同じことを繰り返さないように、社会的に遅れないために。外部における活動での料金は最低限に設定する。その後、その人たちとは会っていない。これからも、もしかしたらないかもしれない。でも、このときのことは、私にとって忘れがたい記憶になった。
*低価格で、低部数で、無名で、マイナーなものを作ろうとすることのリスクのようなものも、同時に知った。この底辺ともいえる領域では、たとえ思想が異なっていても、たとえ真逆であっても、同じ土壌での流通が、流通経路を維持するための数を揃えるために、実現することがあるんだということ。
*1999年末で私はこの同人誌を終えることになるが、自分から発せられた言葉がどのように流通するのかを知るために、書籍の編集の仕事とは別に行なっていたこの個人的な活動は、言葉及び言葉でできたひとまとまりの作品の複製、それを紙面におくための統一性を考慮したデザイン、誌面及び綴じ本としての物体の複製、物体を維持するための耐久性、掲載されている情報以外に物体として存在する意味を支える環境配慮、それが閲覧の選択肢として認知されるための場所の選定及び許可とその場所への運搬、価値の決まっていない情報に値段をつけて販売するということ、それに伴う経理作業、売り上げを受け取るための金銭的入口、返本を受け取る作業、単なる失敗で受ける以上の現実的状況の理解と、流通不適応による疎外に近いダメージ、具体的な見識未満の、炭酸の小さなたくさんの泡のような経験をもたらした。
*この同人誌活動で私が模索していたのは、掲載されている情報価値の上昇ではなかった。仲良しでもない同人関係の、全く趣旨の異なる作品の列挙は、実際にもし商品的価値が出るものであっても、書店の棚の全く違う場所で並ぶであろうラインナップで、方向性を揃えることにはそもそも意味がなかったし、そういう人たちを集めたかったかというと、当時はすでに各種応募懸賞が盛んな時期で、作品の公募も多かったので、自身の作品が多くの部数で流通すること、つまり単純に読者やファンを増やすことを望むなら、そちらを経路とする方がよほど現実的だったと思う。
*要は、何らかの指向性をもったもの、思想を流通させること、そうしたものを共有することとは無縁だった。
*それがどこから来ているかと言うと、私が高校時代あたりからのバブル期で、その力を最も発揮したと思われる広告業界及びそこから展開する大量流通産業への嫌悪からだった。簡単な、肯定的な、強烈なフレーズで、多くの人を動かす言葉の軽薄さや安易さ、それが添付されまくった複製数重視の媒体、その結果生まれてきた、言葉というよりも意味自体を換骨奪胎、虚構化した空洞、逆に極端に難解な表現が好まれるようなカルチャーの跋扈に嫌気がさしていた。それには自身が生まれ育った場所が表参道・渋谷界隈であったことも多く関与していると思うが、その商売が展開されている土地と、そこで売られているもの、商品による表現、購買者への提示/贈られ方とが、乖離しているような印象があった。
*つなぎとめているのは、言語的な意味を二の次にした音楽や、新たな領域を開拓する道具としてのプログラミング言語で、身体が意味に食われ、それを維持する生活までも二の次になったようだった。
*何も、何かを守らない。そう感じるほど、意味の入れ子状態が繰り返され、お互いの外側になろうとして、全体の最も外側を自分が意志する解釈で覆おうとして、戦っているようだった。これが思想そのもののお互いに正当な戦いだったかと言うと、そうは思えない、弱肉強食みたいな様相で。
*今日もまた、安全な家にみんな帰っていって、私の住む街には、仕事への、仕事場への悪口が、吐き捨てられていく。夜中に、それらの言葉が、建物や道路や駅から立ち上って、昏い空に還る。還りきらないものは、夜明けまであたりを悪夢のように漂っている。朝日がそれを霧散させていく。そしてまた、仕事にやってくる人たちの、次の、心の中の罵詈雑言が、朝もはよから無数に吐き出される。表面だけが流行のマーケティングの法則に正確に則った、個々人の心情としては自分の夢があまり叶わない、野心だけはお元気な、言葉のゴミが大量にうずたかくつもった、潜在的に、不健康で生理的に嫌な街になっていく。
*身体が、心が、ただ痛いだけの人生を50年以上生きて、そろそろもういいかなと思って、こうしたこと、ずっと黙って受け止めてきたことを明言化している。かつての幼稚園の園長先生、日本のサンタクロースと同じくらい、もしくはそれ以上に、今の私は機嫌が悪いのである。別にそれでいい。なぜか病気も、2019年夏に、怒りのあまり治ったし。顔のなかった人間が、怒りで自分の顔を取り戻すというのは、ムーミンに出てくるニンニと同じである(ムーミンに、変なイキモノでなく人間が登場するのは非常に珍しい)。
*「その土地に生まれて、その土地のエネルギーで育ったからといって、あなたがそのように嫌われなければならないわけじゃないよ?あなたがそのように街を作ったわけじゃない。それをやったのは私たちなの。あなたは素直だから、自分をそのようでいるしかないと思っているのかもしれないけれど、もうそのように自分の身に引き受けなくていいんだよ?」
*渋谷の街で、大切な役割を果たした故人がそう仰る。最近、過去生で大事なご縁のあった方とようやく知れた方だ。その方のグループが経営されていた渋谷の建物のうちの一つが、先日閉店を迎えた。その建物の正面にあった本のデパートで、際限なく立ち読みをしていたことを思い出す。
*nobodyが、そのグループに属していた(そして再び属している)人だということも、つい最近知った。
*5次元では何度も宣言している結婚が、なかなか現実のものとしてあらわれてこないんだけれども、二人でいた過去生での難儀を思い出しながら、落ち込みながらもあきらめそうになりながらも、そうしない方がいいんだということ、nobodyと一緒に幸福でいる人生を、自分自身に赦すべきだということも、だんだんと分かりはじめている。
*彼はいろいろな顔を持っているようなんだけれども、その一つが冒頭の幼稚園の園長さんと同じ系列の宗派の牧師さんで(上海での究極状態で、洗礼を受けたらしい)、私が彼と知らずに、障害年金をもらうようになったあと、「働く」ということについて悩んだときに、数年フォローフォロワー関係だったSNSのDMで相談をしていて、言葉としてはかなり堅固なやりとりをして、自分なりに一つの結論をみて、それ以来、その件を誰かに相談したことはない。生き延びることも含めて、可能性が高くはないものの、いつかまた働けるようになったら、報告をしようと思っていた人だった。
*救うとは、何なんだろう。私は、正直、自分のこと以外、救えると思っていない(厳密には自分のことすら)んだけれども、実の父の上の弟(叔父と書こう)が、地元での父の正式なお葬式を、ご自分がお手伝いをしていた教会で開いてくれて、その後、私に手作りの野菜を送ってくれる箱の中に、聖書のやや私には難しい教義の解説などを、達筆な字で書いて、封書として入れてくれていた。
*つらいのなら宗教に入りませんかという誘いは、障害者になってからは自宅の呼び鈴が鳴らされる数も、パンフレットの数も増えて、けれど、それが自分の救いになるとは思えなかった。
*野菜の箱に、聖書解題の封書が入るようになって何年目かで、私の具合が悪くなったとき、もうこれは受け取れないと思い、お断りした。この難解な言葉に頼る意味、頼るように促される意味が、分からなかった。
*それが、数年前にこの叔父が亡くなり、父のお墓参りを兼ねて地元を訪ねたとき、その教会の共同墓地にお参りして、かつて聖書の解題が書かれた封書を受け取れなくなって申し訳なかった旨の謝罪を述べたら、亡くなった叔父が、「亡くなってから初めて分かったんだけれどもね」と言い出し、何が来るのかと思ったら、「あの難解な言葉ね、あの呪文にも近いあの文章は、私にとって、現実から逃げないための鎖のようなものだったって分かったの」と言った。
*宗教の難解な言葉に嫌悪感があった私には、あまりにも衝撃的な言葉だった。現実から逃げないための鎖であるということは、その難解さ、ともすると内容が正確には分からないほどの難解さに、だから、大事な意味があったということになる。叔父が、長男である私の父が、母親の(私にとっては祖母)教育観によって、どうしても東大に入らなければならず、他の兄弟は犠牲になってもよかったらしく、叔父は、祖母の介護も含めて、最もその犠牲を強いられた人だということを、私は父が亡くなる前にすでに母から聞かされていたし、父の死後にご本人からも伺って、知っていた。
*現実から逃げないための鎖。
*役目によっては、社会においても、家族関係においても、簡単に死んでは済まないものがある。
*ご本人も半分驚いて話していて、私も驚いていて、あの、読むのがつらかった手紙たちは、あまりに達筆な叔父の文字とともに、不思議な存在感を抱く記憶になった。宗教に対する意識が少し変わったのは、このときだ。
*nobodyは、仏教系の施設でお世話になっていたときもあるようで、病気が治ってそれほど経たない頃に、そのお寺の大きな座敷での、外国人で禅僧の資格を持たれた女性の方の講話のときに、意識だけ一緒にいてくれたことがある。
*その場での個人的な気づきとして、どんな内容の相手であっても、対話の際に、対面で語るのか、横にいて語るのか、その意識の違いが、話せることすら変える可能性があるということ。「自分と向き合う」という言葉に、知らぬ間に相対する自分と自分の間での対立が促されていっているような、ある種の限界を感じはじめていたときで、「こんなことを一緒に考えられるようになったね」って話したのが懐かしい。
*最近、観音やら菩薩やら、仏教系の人格存在を見かけるにつけ、仏教というのは、そもそも樹の下で座って自己認識を行なうものであって、いわゆる男性性の修行じゃないんだなという理解が起こった。男性性とは、身体に対して、外側の存在意義のようなもの、属性等の名前や、顔や身体にあらわれる形態表現のバリエーションの掲示を行なうもので、これによって自己価値をはじきだして、自分の社会性に対する自覚の役に立てていく。男性性の修業とは、ここを上手に自覚するためのノウハウや経験を培うことになる。
*ここを、宗教へのアプローチのしやすさを引き合いにした「誰でも」の平等性を基準に、自我の個的な部分を平板化する、もしくは削っていくのは、かなりの苦痛を伴う。社会生活との両立さえ、難しいと思われる。ここを無理にやろうとすると、もしくは男性性の修行だと思って取り組むと、思いもよらない自我の削減を強いられた反動で、暴力的になる。これはもはや、当然の理と言っていい。
*これに比して、自分に起こること、それがたとえ暴力であれ、受け入れつづけることは、ある種の女性性の修行であって、自我の削られ方も男性性の修行を想定したときとは異なると思うのだが、どうだろうか。
*座するなかで行なう自己認識とは、いわゆる座禅でよく促される、脳内や自我を「空」の状態=なくすことではなく、自己とそれ以外の世界を隔てる輪郭を意識すること、そこへの内外同時の意識にチューンナップして、そこにはたらいている力学の現状認識をすることだと、勝手に思っている。
*「あなたが何に最も宗教性を感じるのか、聞いてもいい?」とnobody。
*んー、と私。
*浮かんだのは、長野の善行寺さんの胎内巡りだった。
*この胎内巡りは、現地では観光対象として、ちゃんと料金別のツアーになっている。
*大仏さまの下に潜って、現代ではありえないくらいの真っ暗な空間を、壁に触りながら進んでいく。進むうちに温かく感じはじめて、胎内=母親のお腹のなか、外部への意識が感覚的に存在しているのに、最も身体が守られている状態に陥る。真っ暗なのにこんなに安心するのヤバイ、と思うほどの感覚である。
*青山の善行寺さんの別院が尼僧だけのお寺としてごく自然に存在できているのは、この胎内巡りが存在しているおかげなのかもなと、この歳になってようやく知る。
*守られるというとき、頭だけでも、心だけでも足りず、やっぱり身体が守られている必要があるんではないかと思う。その完結性からして、母親のお腹以上のものは存在しない。
*胎内に限らず、この、絶対的安心感を思い出すという、ある種の虚構を利用した装置が、私にとっての救いであり、宗教性だと言ったらいいのだろうか。
*同様に胎内で起こっている、心音に似たリズム、響きも、私にとって、割と大事な宗教性を支える要素だったりする。この件で、必ずしも共感を得られないかもしれない内容を書いて終わりにしたい。
*原宿駅が寄りそう明治神宮の入口付近には、代々木体育館があるのだが、ここが近所の渋谷公会堂などの小さめのホールを超える収容人数を可能にするために、いつからかタレントや歌手のライブやコンサート会場として機能するようになった。ある日の夜の時間帯に、代々木体育館の外の石畳でぼーっとしようと思ったら、何某かのコンサートの時間に当たったらしく、すごい爆音とともに、敷地の外の横断歩道にいてもその振動が伝わるほどの、リズム楽器の打音が鳴らされていて、あまりにすごい、地と共鳴したような振動に、心音のようなものを聞いた。
*ここら一帯の土地が、戦後のダメージを超えて、パワーを再生する必要があったのだろうか。地元民としてはときに理不尽にすら感じる、この他者領域の振動は、もしかすると土地の心音として、若者が協働する新たなエネルギーをこの地に注ぎ込んでいたのかもしれなかった。