dear me
【2026 葉月】
はづき





2026.8.11



BGM:「烏 - Raven」(米津玄師)

*さてな。
*前回の祖父の件は、私に届いているエピソードとしては、祖父が青山の大空襲で、煙のなか手引きの通りになくなったのちの戦後に至るまでのかなりの展開を見せ、どの分岐を追ってもあまり不用意に文字化できるようなことではないのだが、時期を見て、おそらくまた続きが書けるのではないかと思う。
*自分の話で。
*去年だったか、長く、家の庭で拾ってから18年くらい家にいた猫がなくなったと、母親から聞いた翌朝のことだった。「英霊については自分が最も知っている」という脳内メッセージとともに、祖父ではない、実の父でもない誰かが、霊状態で後頭部の下側あたり、当時長かった髪の毛から入ってきて、非常に強烈な支配力を展開したので嫌気がさして、この髪はもうそうした存在が入りやすいかもしれないので、いったんリセットしようと思って、近所の美容院で丸刈りしてもらった。
*これほど明快に女性の丸刈りするのが初めてでいらしたらしい美容師さんが、再三の確認のあとに、さすがに何も残さない丸坊主は難しかったらしく、約5ミリほどの長さを残して刈ってくれた。そのときに、「割とはっきりした傷跡が2つありますね」と仰って、そういえばこんなに頭を剃ることがなかったので、その、幼少期のときにできたと聞かされている傷のことを、誰も目視することがなかったんだなと気づいた。
*傷は、2歳のときのものと、4歳のときのもので、2歳のときは記憶がないが、母親曰く、2歳で離婚した父親が公園で私を滑り台で遊ばせていて、落ちたのだという。相当、血が出たらしく、それが初の頭を縫った怪我だったらしい。4歳のときのものは、母親が1年間、海外に音楽留学中、祖母と二人暮らしをしていて、祖母が間貸ししていた、家の2階部分のトイレと廊下と階段のお掃除を一緒にやっていて、当時の祖母は、ある手術の影響で下半身麻痺が続いていてコルセット状態の最も不自由な時期にあり、モップ掛け(乾拭きできるあのもしゃもしゃなやつ)で力が入らないので、私が身長を超える長い柄をもって、階段の上から掃除をやろうとした途端に滑って、いちばん上のところからモップと一緒に真っ逆さまに最下段まで落ちて、失神したときのもの。これも状況からして無事だったのが奇跡のようなもので、頭を縫ったのだろう。モップが滑った感触も、落ちた瞬間も、覚えがある。気づいたら(目を開けたら)布団で寝ていて、天井の板の木目が目に入ったので、布団だし、祖母と食事後の団欒やテレビ鑑賞等をしていた、掘りごたつのある和室だと分かる。祖母とはこの年の間は、祖母の部屋で、叔父がこれを機会に購入してくれた広めのベッドに一緒に寝ていたが、風邪を引いたときなどはうつらないように、こちらの和室で寝ていた。それで安心してまた寝て、次に引き戸を開ける気配がしたときに目を開けたら、祖母が心配そうに、ほとんど慄いた表情で覗き込んできて、目を開けた私を見て、何というか、「ああっ」と感嘆の息をもらした。それがあまり安心そうには見えず、一瞬、自分は目を開けてはいけなかったのではないかと思った。そもそも、祖母は私のそばにはいなかったということでもあり、死んでいることを確かめに来ていたのかもしれなかった。
*ところで、この、記憶にない2歳のときの状況として、①実の父が私を誘拐しそうになった(そうなのであれば祖母と仲が悪かった父がまず私を連れ出して、次いで母も連れ出す気だったのではないかと思うが、グランドピアノ付きの母は結局、家を出なかった)、②傷は応接間のガラスのテーブルの上に長らく置いてあった、外側がガラス製の切子が立体化したような形状の灰皿で母親から殴られたものだ、という、可能性のような、予感のようなものが、最近、やってきている。実際、応接間のガラスの灰皿は、サスペンスドラマに凶器として何度も出てきたような形状で、にわかにその殴られた(応接間には片側に2台のグランドピアノが並べて置いてあったので、応接間側で遊んでいたかした私に、ピアノの練習に集中したい母親がイライラした結果かもしれない)ときの、頭から背骨及びお尻に抜ける打撃が、身体の記憶として浮かんできてしまうから不思議だ。どうやら、この話を信じている人たちも存在するらしい。
*真偽はともかく、この、ここ数年でやってきている、私の知らなかった私の状況、というものは、私の記憶よりも、なんなら私自身よりも、ずっと、総体的には「私らしかった」んだろうなぁと思う。社会的な印象もこれに連動するから、私が知っている自分と社会的な自分との間に、最近まで大きく齟齬がある状態だったということだ。これはとても恐ろしいことのように思う。私は30歳のときから20年ほど精神障碍者として生き、50歳で唐突に病気が治って、そこから約2年で薬も通院も終わり、それ以来リハビリを続けているのだけれども、この、自分が知っている自分と社会的な自分との間に大きな齟齬がある状態では、生きるのが難しく感じるのも当然だったかもしれない。
*社会的な意味での真実とは、おそらく、私自身よりもその総体的な自分の側に分があるから。
*この、特に2歳のときのことを思い出すと、あの強烈な痛みとショックを、幼い私は、自分が怪我をしたのだとは認識していなかった。おそらく、それだと怪我をさせた親(どちらのケースにしても)を加害者にしなければならず、自分への敵意を、もしくはそこが遠因で起こったのかもしれない過失を、自分事としては受け止められなかったからだと思う。4歳のときの祖母の、私が生きていたことを確認したときの何とも言えない反応も、これに準じるものだった。
*世には「過剰適応」という言葉があるらしい。弱者が生存を確保するために、その環境に過剰に適応して、無理やり肯定的に自分が置かれた環境を認識する、そのように振る舞うことを言うそうだ。
*自分が、かなりの幼少期、いわゆる物心つく前から、この過剰適応の状態だったのではないかと考えると、どうも異様に耐えるのがデフォルトの、けれどもそれを単純な意味での否定的には考えることができなかったこの人生についても、分かりやすくなるというものだ。
*「単純な意味での否定的には考えない」=つまりこの場合、怪我をしたのは、単なる個人としての私ではなく、社会的な親と子の間に起こったことと考える。個別のケースとしてではなく、社会的なケースとして。いきなり、そう考えるのである。おそらく、二度の怪我を自分だけに起こったと考えると、あの幼い私には受け止められなかったからだ。
*この、個別のケースをいきなり社会的なケースとして考えるこの態度が、実は、何ものも個別のケースとしてはとらえない=すべてを象徴的な意味として捉えるのが仕事の、過去生でも担ってきた巫女的な資質に(自覚的なところでは意図せずに)重なって、今の、病気が治ってからの数年の、世界認識(地球及び今現在の人格世界に至る、変数の対象を人間に限らない時系列的な認識)の状況が起こっているのではないかと思う。
なので、今の私の周囲環境への認識状態が異常かと言うと、多分異常だと思うが(特に、認識の検出深度が)、この認識状態に至った今世の私の身体及び脳の発達の経緯としては、いたって正常だったと思われる。怪我が起こった状況が、ではない。この感覚に陥っている状況が、である。
ここで気をつけたいというか、私が過去生からずっと、特にこの能力及び資質ゆえに惨殺された縄文時代の自分からずっと、この能力を人間(人格)のためだけに使うことを、人間外のものたちから禁じられているということと(この能力自体が、素材を含む地球上のすべての存在との共有財産だからだ)、この能力が社会的に突出するような状態(歴史的には権威的な地位としての大巫女などが活躍した時代もあるが、日本にはあまり適合していないように感じる)には至れない、ということだ。これが、いわゆる人格的な謙虚とは無縁の態度だということも、尊重されてしかりだと思われる。
とりあえず、過去生で家族としてもしくはコミュニティの一員としてお世話になった方(といってもこういう関係性があったことを思い出したのはここ数年)の13回忌も数カ月でやってくるし、そのご供養の意味も含めて、私が生まれ育った街やそこで展開された文化価値の変化や分析を遠距離の目標として、しばらくはこの認識及び言語化を続けていくのだと思うが、まぁまぁ、静かにやっていきたい。
ちなみに、真偽はともかく、私を殴る役目に陥ってしまったのかもしれない気の毒なガラスの大きな灰皿を、私はすごく好きで、その外側が立体的な切子になっているのを、一人でその応接間にいるときには(だいたい、母親がその部屋を使わない、ピアノのレッスンが終わった夕食準備~夜の時間帯に、ステレオでラジオやレコードを聴いていた)、よく指のはらで触っていた。この灰皿が悪いわけじゃないこと、お互い痛かったね?(いや、ガラスの方はそれほどじゃないと思う)なんでサスペンスドラマ常連の悪者にまでなっちゃってるんだろうね?っていうのを、いたわりあっていたのかもしれない。




2026.8.2



BGM:「空が薔薇に飲み込まれていた | Relaxing Floral Ambient」(ChillCaféSoundscape-2025)

*今年も八月になった。以下に記すのは、あまりにもすぐにちゃんと書くことが難しい内容なので、ある種の下書きになると思っている。終戦の年の5月の青山の大空襲に巻き込まれて亡くなっている、当時外務省の嘱託として勤務していた、沖縄生まれハワイ育ちアメリカで大学教育を受け戦争抑止のために祖母との結婚と同時に来日した、私の祖父のことである。名前を湧川勝三(わくかわかつぞう)という。「かつぞうなんて、あのご時世にどこに向かって喧嘩売ってんのかって感じだよね」と、2022年あたりから脳内で話しはじめた祖父は(おそらく、空襲時に亡くなった魂が裏に広がる神宮の杜に眠っていたという明治神宮及びその土地が、建設100年を迎えたので、意識が集中しやすくなってきていたのだろう)笑っていた。
*沖縄の中部、名護の北東には、わくがーと音において呼ばれる「湧川」(わくがわ)という名字があって、祖父が生まれた湧川の土地の名にもなっているので、遠縁ではあるし、世界遺産にもなっている今帰仁城に仕える一族としても記録にみえているのだが、祖父が混乱の中はやく亡くなった都合もあって、四男の勝四郎(後の清栄)との縁の方が深そうである(96歳まで生きた祖母が「勝四郎さん」と呼んでいた声が蘇る)。
*湧川清栄は、日米の懸け橋としての書籍も残るような存在だが、在米で特に戦時中は日本には来ておらず、三男の兄である祖父の名をかたって、戦争を煽らせる系の記事を書いたりもしていて、日本で仕事をする祖父のスパイ容疑を助長した人物であり、祖父とは腹違いの別人である。なので、この四男の系列のご縁は、今から書くこととは関係がないし、勝三に関することなら、たとえ戦後の祖母が関係するご縁であっても、むしろ潰してきかねない流れだと言っておいた方がいいと思う。「私が、勝四郎や、上の二人の兄弟とも腹違いであったことは、ママ(晴代)は知らないから」と祖父。
*兄弟喧嘩を仲裁するのが得意だったという理由で、政治学を選んだらしい祖父は、温厚きわまりない人で、家の方針で日本語も英語と同じ程度に堪能な、情熱型だが怒りっぽい祖母とはだいぶ異なる資質を持ち合わせていたようだ。
*祖父は霊になってさえも言わないが、兄弟仲をとりもっていたからというよりは、移民として幼年期から育ったハワイで、現地にお住いの方々と、自分の家の稼業(長男が和食のレストランを経営することで、親兄弟の生計と、下二人の特殊に優れた兄弟の教育費を賄ってくれたという)との間をとりもっていて、いろいろと感じるところがあったのが(ハワイの王族が王国の維持に敗れ、アメリカに併合されたのは戦後である)、真の理由ではないかと思う。つまりは、そもそもは、自分が育ったハワイがアメリカに飲み込まれないために、政治学を学んでいたのではないかということだ。そしてそのためには、世界的に勃発しようとしていた戦争を、当時で言えば、世界的な戦争勃発を誘発するような「力を持たされていた」日本を止めるしかなかったのだろう。
*祖父が祖母と出会ったのも、祖母がハワイに留学しにきていたからだった。海外留学において日本で最も著名な津田梅子氏のもう少し後の話である。祖父は、祖母の額にビンディのように明快なイボがあるのが、尊く思えて結婚することにしたという。祖父のような経歴の人物が当時来日するためには、おそらく結婚くらいしか手段がなかった。来日して程なく、当時の日本の政界でもはや唯一、国力の事情を知って戦争を止めたかった外務省が、祖父の申し入れを聞いて、嘱託扱いにしてくださった。
*日米両方の言葉が堪能だったという件は、以下のエピソードで書いてみる。祖父と祖母は、ハワイから来日して(結婚は船上)、(明治神宮の)表参道の青山寄りに建ったばかりの同潤会アパート(現:表参道ヒルズ)に新婚で住んでいたが、祖母とはよく喧嘩をして、これは祖母もよく孫である私に話してくれていたが、そういうときは祖父がふらっと散歩に行ってしまって、数時間後に帰ってくる頃には仲直りしているというような状況だったらしい。表参道をその件で(温厚な祖父だって怒っていたかもしれない)散歩中に、明治神宮寄りに外国人の居住先として有名だったワシントンハイツのあたりで、気分が悪くて倒れていた白人のご婦人を助ける際に、顔を見たせいなのか思わず、流暢な英語で「May I help you ?」と言ってしまって、これがスパイ扱いやこのご婦人との関係性が疑われる発端となるくらい、普段は完璧な(特に発音にも語彙にも問題のないと言うべきなのか)日本語で話していたらしい。
*ちなみに、このご婦人だが、当時のワシントンハイツには、実際にはいろいろな国の出身もしくは混血の方々が住んでいて、このご婦人は英語が流暢だったが血統としてはロシア系で、私が4歳のときに(祖母には面通しの意味だけで詳細は共有しなかったらしい)一度、ドイツ系の方と一緒に家にも遊びに来てくださった、ジャニーズ事務所でジャニー喜多川氏の姉として(喜多川氏はアメリカ系で、実際にはメリー氏とは血縁ではない)お仕事をされていたメリー喜多川氏の、お母さまに当たる方である。ドイツ系の方のほうは、スピリチュアル界隈で(OSHO禅タロットの著者でもあるOSHO氏に師事)各種ヒーリングの活動をしておられ、私も偶然にその講座を単発で受けたことのあるウタ氏だそうだ。この私の幼少期において象徴的な、母親がウィーン(オーストリアの首都)にピアノで音楽留学していて祖母と二人暮らしだった一年間の間に起きた、この、うちの応接間での件の詳細は、亡くなったあとのメリー氏から伺っている話だ。
*その日の私は、英語を意気揚々と、まるでこれからの日本がとるべき道ででもあるかのように、アメリカ人(だと思っていたし祖母も私にそう言っていた)と話す祖母に嫌気がさしていて(このせいで英語が嫌いになったくらいだ)、ウタ氏が用意してきてくれたという、飴とチョコレートでできたレイ(ハワイで言う首飾り)を、私の近くの側のソファに座っていたメリー氏から首にかけてもらったときも、メリー氏が「ごめんなさいね」と言いたいくらいだったと表現されるほど、アメリカとの力関係(厳密にはドイツ及びロシアなわけで、メリー氏はすでにジャニー氏のもとでアメリカ人名義で活動されはじめていたので、対白人と言うべきかもしれない)に怒りを覚えていた。今考えると、当時の私にそれほどの判断力があったとも思えず、もしかすると近くでまだ霊のみでいるしかなかった祖父が聞いていたのかもしれない。
*このとき、お二人が祖母のもとに来てくださったのには、単にご近所の訪問だけではない意図があったそうなのだが、そこに到達したのはあの日から50年以上あと、孫の私の方で、ほんの昨日のことだった、というのは、それだけ時間のかかることだったと思うべきなのだろうか。
*頭がいったん限界を迎えたので、いったん区切る。